高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

万博に見る夢

万博が大阪で開催することが決まった。

2025年万博 大阪で開催決定 55年ぶり2回目 | NHKニュース

 

いち大阪府民としてはいまさらする必要があるのかと思っていた。これは東京オリンピッについても同じで、「東京の人たちはこれから大変だなぁ」とのんきにしていたらこっちにまで飛び火してきた気分だ。はっきりいって全く胸が踊らない。そんなんより税金下げてくれ。子ども手当増額してくれ。まぁこれが本音だ。

 

村上龍の昔のエッセイを読んでいると、バブルの頃というのはダイナミックな時代だったんだなと思う。風俗嬢がパリでブランド物を買い漁ったり、村上龍が当たりもしない映画を撮影したりとか、あと会社の偉いさんが従業員を集めてキャバクラをおごったりとか、(じつに私の職場であったそうな) とにかく勢いだけはある。生まれた頃から不況だった私からすれば信じられない話ばかりだ。実際、バブルの話はテレビや年配の人から聞くばかりで現代社会に地続きという気はしない。おとぎ話のようでものすごい断絶がある。

 

大阪万博はバブルよりも前の時代だがとにかく発展しよう、希望を持とうというイメージがある。実際に映画「男はつらいよ」を見ても登場人物はむちゃくちゃでやたらと荒いが、皆いい笑顔をする。希望を持つものはそういう笑顔を見せるのかもしれない。今「男はつらいよ」を撮ったとしてもきっと売れないだろうし、そもそも撮影すらできないのではないか。どうもそんな気がする。

 

万博に話を戻して、開催されれば見には行くかもしれない。だが未来に希望を持ったり夢を見ることはないだろう。きっと金掛けてんなと思うだけだ。お祭りみたいなものだからそういう楽しみ方をする人もたくさんいるはずだ。だがそこには希望はなく、衰退し続ける現実が転がっている。

かつてシフト勤務で眠れなくなって自分の頭を殴ったことがある

リストカットの原因と心理 なぜ自分を傷つけてしまうのか - メンヘラ.jp

 

上記の記事を読んでシフト勤務が始まった頃を思い出した。今も私はシフト勤務なのだが、サイクルとしては一週間昼勤なら翌週の一週間は夜勤となっている。この一週間で切り替えるのは想像以上にしんどい。体が慣れた頃にシフトが切り替わるので、うまく眠れなくなる。特にシフト勤務開始してすぐは特にきつい。判断力が低下するし、ともすれば立ったまま寝てしまったりする。

 

眠りたいのに眠れないのは精神と肉体を蝕む。私の仕事は機械を操作して部品を加工するが、業務中に集中力を保てない。部品の精度は時に0.001ミリ単位が求められるのに、測定具で測っても目の焦点が合わなくてうまく読み取れない。さらに読み取った数値を所定用紙に書き込むが文字が正確に書けない。後で見返すと、まるでミミズがのたくったようでほとんど判読できないのだ。

 

安全面の不安もある。工作機械は油圧やサーボで動き、パワーがある。注意を怠ると腕や指が巻き込まれたり挟まれる可能性がある。最悪の場合死に至ることもある。

 

この状態が一日中続くわけではなく、短ければ十五分、長いと二時間くらいだ。私はこの仕事にならない状態を個人的に「眠たいモード」と呼んでいる。(そのまんまだ) 一旦この状態になると顔を洗おうが頭から水を被ろうが眠気がとれない。眠気のあまりうずくまってしまったときもある。とにかく仕事にならない。おそらく眠るための物質が本来のタイミングでないときに出ているのではないだろうか。

 

ここまで眠たいのなら帰宅したらあっという間に眠れてしまうように思うが、実はそうでもない。まぶたは重たいし体はだるいが、布団に入っても妙に頭が冴える。意味のない思考が働き、眠らなければと思うほど焦りが募るばかりで一向に眠れない。やみくもに時間ばかりが過ぎて気づけばもう起床時間になる。絶望の朝だ。希望はない。

 

こんなことを何日か繰り返すともう布団に入るのが怖くなる。実際は一、二時間は眠れているのだろうが、今日も眠れなかったらどうしようとしか考えられなくなる。明日も仕事に手がつかなかったら…… 他の夜勤者は平気そうなのになぜ自分だけこんなにダメなのか……。次第に自己嫌悪と劣等感で一杯になり、私は自分の頭を殴り、髪の毛をむしり、頬を張ったのだった。

 

 

そして今また眠れない。改めて思うがシフト勤務なんて人間のやることではない。人は朝起きて夜に眠るようになっている。夜型の人もいるだろうが、短期間で生活リズムを変えるのは不可能だ。どれだけ便利な世の中になろうともそれを維持し続けるために、人はどんどん不自由になっていく気がするのだ。

人生は「体力」が結果を左右する?

最近、筋トレを始めた。というのもこちらのtogetterを読んで自分に思い当たるふしがあったからだ。

全てのデスクワーカー・自営業者に捧ぐ「運動不足の漫画家が筋トレを始めた結果」感化されて筋トレに目覚める人続出「よし運動だ」 - Togetter

 

共働きなので当然家事も料理もするのだが、仕事から疲れてしまいついおろそかになってしまう。それは妻も同様なのだが、そのせいでやることが終わらない→それらがたまって余計にやる気にならない→片付かなくてイライラしてしまう。→無理やり終わらすも疲れはててダウン、という悪循環に陥ってしまうのだ。

 

これはよくないと思い一念発起?し、本気になれるようプロテインも購入した。先のまとめにもある鈴木達也氏の動画にあわせて筋トレしているがなかなか悪くない。自分で行うとついインターバルを長めにとってしまうが、動画なら無駄なインターバルはないし、終わりが見えるので最後までやりきれるのだ。久しぶりにインターネットのよい使い方をしている気がする。まだ初めて一月と経っていないが、なんとなく体が動く。けして無理が効くようになったわけではないが、今までは「これ以上は家事はできない」から「あと一つくらいならやろう」と 思えるようになった。

 

世間でもネット上でもだが、活躍されている方はたいてい精力旺盛だ。忙しい合間を縫ってジムに通ったりスポーツに励んだりと私からしたら羨ましいくらいだ。忙しいから体力がいるのか、体力があるから忙しくで来るのか、それはわからないが、いずれにせよ体は資本なのだと実感する。

 

私は体が弱く、根を詰めすぎるとすぐに体調を崩す。今まで四回入院したが、私の三人の兄妹は知る限り入院したことがない。どうもそういう体質らしい。この体質があってか色々な機会を失ったように思える。単純に外に出るのが億劫になったり人に遊びやスポーツに誘われたりしてものらなかったり。結果として私には何も身に付かなかった。たいした趣味も特技もない。特に人と会話すると、あまりにも共有できる話題が少なくて自己嫌悪になる。もちろん私の怠惰が一番の原因だが、肉体と精神は結び付いているからわけだから、体の弱さが怠惰の遠因になっているのだろう。

 

そう面倒臭がって色々とやり過ごした結果が今に繋がっているのだから、未来をより良いものにしたければ結局努力するしかない。そして運動にせよ勉強にせよ、努力には体力が必要だ。

女の子は他人の家の子なのか?

久しぶりに更新する。すっかりほったらかしになってしまった。

 

以前、公園に子どもたちを連れていった。まだまだ冬が厳しい頃だったが、長女は元気なものでそこらじゅうを走り回っていた。私は次女の手を引いて散歩していた。次女はあらゆるものに興味をひかれ、楽しそうだった。その時、ベンチに座っていたお爺さんに声をかけられた。犬の散歩中の様で傍らに茶色い犬が伏せていた。たわいもない会話だったが、お爺さんに「子どもは女の子二人?」と聞かれ、そうですと答えると「女の子は人の家の子だから、男を産んで跡継ぎをつくらないと」と言われた。私は一瞬、何を言っているのかよくわからなかったが、つまり女の子は嫁にいって家を出てしまうと言いたいのだろうと理解した。

 

私には子どもに残すような資産も家もない。名のある家柄でもない。情けないような気もするが、現実なのだからしかたない。だが、何も残せるのは金銭的価値のあるものだけではない。例えば大げさではあるが自分なりの哲学や生き方、歩んできた人生の道のりなど、形にはなくても伝えられるようなものだ。

 

ブギーポップシリーズのどの作品か忘れてしまったが、ある人物の台詞で好きな台詞がある。それは「自分の発言や行動が望む望まないに関わらず、誰かに影響したり、遺志が引き継がれていく」というものだ。なんともあやふやな感じがとても人間らしく思える。

 

先のお爺さんも特に裕福には見えなかったので、おそらく残せられるものもそう多くはないだろう。それでも跡継という考えになるのはそれが当たり前だった時代に生きたからだ。かつては家父長制だったし、それがある種のアイデンティティになっていたと思う。だから古い考えとは思うが否定されるものではないし、今の時代に合わなくなっただけだ。

 

私はもう30になる。子どもたちやこれから出会うであろう年下人に何を伝え、残せられるだろうか。そんなことを考えるようになった。

色々と惜しい「メアリと魔女の花」

 

『メアリと魔女の花』公式サイト

 

米林宏昌監督作品「メアリと魔女の花」を長女と見た。実は最初、CMを見た時、スタジオジブリじゃないのにジブリ風にしなくてもと思い、見るつもりはなかった。ただ、エンディングテーマをSEKAI NO OWARIが担当していると知って、別にセカオワのファンではないが、何かジブリとは違う新しいものを感じて考えを変えた。それにジブリ風というだけでも需要がある。私は日本の美しい風景を収めたある雑誌を持っているが、それにはジブリのような風景という項があって、やはりジブリの影響はでかい。それにおもしろければなんでもいい。ここからは「メアリと魔女の花」のネタバレがあるので注意してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結論からいえば、今作は「真面目だが平均点」の作品だ。ジブリっぽさも相まってどうしても期待値が高かったのもあるが、もっとやりたいように作っても良かったのではないいかという印象だ。画面作りやアニメーションそのものは良かった。ただ残念だった点は「話が冗長すぎる」と「派手さが足りない」だ。

 

まず「話が冗長すぎる」について。これは単純に無駄が多いと言い換えてもいい。展開がもたつくのでひとつひとつのシーンが長く感じた。もっとスピーディーに展開しても良かったのてはないだろうか。開幕、燃え上がる研究室から話のキーアイテム「夜間飛行」という花の種が、ある魔女に盗み出されるシーンから始まる。「夜間飛行」という花には人に魔力を数時間与える力がある。後でわかるが「夜間飛行」を利用した危険な実験が行われ、それを阻止するために盗み出されたのだ。ここは燃える研究室や箒に乗っての追走劇があり迫力があった。掴みとしては十分で、期待させるものがあった。場面がかわって主人公メアリが登場し、森の中で「夜間飛行」を発見する所から本編が転がって行くが、まず花を見つけるまでが長い。メアリはわけがあって大叔母シャーロットの住む赤い館に引っ越してくる。メアリはおっちょこちょいなようで、家の手伝いをしようとするが、失敗ばかりだ。それはいいのだが、メアリの失敗シーンが何度もあるのでそんなに必要かと思う。また、黒猫ティブに誘われるように森に入って行くが、この時ティブの体毛が黒から灰色に入れ替わるような演出がある。結局はもう一匹の猫ギブがいただけなのだが、私はてっきり猫がなにか魔法的な演出かと思ったのでちょっと肩透かしだった。そして、「夜間飛行」を見つけてさぁ盛り上がって行くかと思えば、メアリは花を一輪持って帰ってしまっただけだ。特に派手な何かは起きない。もちろん後の展開に繋がってはいるが、本作はこんな拍子抜けが多い。魔法の国にある「エンドア大学」にたどり着いたメアリは「夜間飛行」の力で(あとメアリ自身の赤毛や黒猫ティブのおかげで)優秀な魔女と勘違いされる。校長マダム・マンブルチュークに学内を案内されるがこのシーンもわりと長い。そしてそのまま大学に入るでもなく、入学願書を手渡されて終わりである。もちろんいくつかの重要な伏線はあるが、魔法的な派手な展開はないので子どもだったら飽きてしまうのではないだろうか。

 

スタジオジブリの作品は展開が早い。全てがそうだとは言わないが、「天空の城 ラピュタ」は特にスピーディーだ。意識して見るとこんなに早かったのだなと驚くくらいだ。「千と千尋の神隠し」で始めて釜爺に会いに行くシーンは、とにかく長い(そして危ない)階段を降りるが、途中蛙の従業員に見つかりそうになったり、足を滑らせて猛スピードでかけ降りたりと観客を飽きさせないようになっている。たぶん宮崎駿監督は飽きさせない工夫を随所に仕込んでいるのだろう。

 

また「派手さが足りない」だが、盛り上がる場面であっさり終わってるなと思った。劇中、ピーターという少年がマンブルチュークに拐われてしまう。マンブルチュークは「夜間飛行」を欲しており、ピーターを人質にして「夜間飛行」を手にいれようと画策する。メアリは再びエンドア大学に赴き、マンブルチュークと交渉するが、なんと「夜間飛行」をあっさりと奪われてしまう。当然ピーターを返してくれるはずもなく、ピーター共々巨大金庫に閉じ込められる。メアリは十一歳なので騙されても仕方ないかも知れない。しかし、金庫を脱出した後、ある場所で「夜間飛行」の花の最後のひとつを手にいれる。これはメアリにとって最後の切り札のはずなのだが、これまたあっさりと奪われる。

 

クライマックスではピーターは前述の実験の被験体にされ、「どんな魔法でも操ることの出来る存在」に変えられてしまう。しかし、実験は失敗しピーターは巨大なスライムのような姿になり、研究室を破壊しつくす。元の姿に戻すためには「全ての魔法を終わらせる魔法」が必要だが、メアリにはもう魔力は残っていない。どうしたかといえば未だ人の意識と形が残るピーターに、呪文の真髄という魔術書があって、それを手渡すことで先の魔法により全ての魔法を無効化したのだ。手に汗握るシーンのはずだがここでも「あれ、もう終わりなのか」と思った。そもそも奪われた「夜間飛行」を巡る攻防があると思ったのだがそれもなく、実は最後まで未使用のままだ。(それなりの意味合いはあるけど) 化け物にされたピーターにより研究室が破壊されたのだが、人死も出ず(出て欲しいわけではないが)、エンドア大学が崩壊するわけでもない。絵としては地味である。何よりメアリとピーターの関係性が薄い。メアリにとってピーターは出会って数時間のご近所さんだ。運命の相手とか好意があるわけではない。

 

新海誠監督の「君の名は。」は破局を回避するためにしたことは「町長を説得し訓練の名目で皆を避難させた」だけである。それだけならわりと地味だが、主人公達と観客には、隕石が落ちたらどうなるか前もってわかっている。それに主人公瀧と三葉は無意識ながら意識しあっている。だから展開が派手でなくてもしっかりと感動が伝わるのだ。

 

色々と書いたが 「メアリと魔女の花」はイギリスの作家メアリー・スチュアートの「The Little Broomstick」が原作だ。原作は未読だが、もしかたらあまり改変出来なくて、あるいは忠実に再現して今回の仕上がりになったのかもしれない。だから、次回作があればぜひ米林監督のやりたいように作って欲しい。実力はあるはずなので期待はできる。

 

余談だが、長女が最後の最後でポップコーンとジュースを盛大にぶちまけたのが一番衝撃であったが、これこそ余計な話だろう。

前髪一直線!

前髪の揃っている、いわゆるぱっつんが好きだ。ぱっつんの女性を見かけるとつい目がいってしまう。それで妻に睨まれたりする。特に大人らしい美しいの女性(成人なのに大人らしいというのも変だが)がしているのが好みで、ついでポニーテールだと完璧だ。たぶん、ぱっつんという子どもの要素を、大人の女性がしているギャップに弱いのだろう。ZARDの故・坂井泉やaikoYUKIのような女性のぱっつんが好きだ。だから少女性を売りにしたアイドルや十代のぱっつんはそこまで響かない。最近では広瀬すずが飛ぶ鳥を落とす勢いで、彼女は可憐さと美しさを持ち合わせているが、美人だと思うだけだ。

 

何故こんな話をするかというと妻がぱっつんにしたからだ。普段は前髪を横に流していたのだが、あくる日美容院でぱっつんにしてきた。訳を聞くと私の好みに合わせてくれたようだ。実は結婚する前にもぱっつんにしたのだが、前髪のせいでおでこが痒くなるのですぐにやめてしまった。妻はわりと童顔で、ぱっつんのせいでよりそれに拍車がかかった。私は気恥ずかしくてつい笑ってしまったが、せっかくなのでポニテにしてくれとたのんだら、妻の魅力が倍増した。結婚して四年目だが、妻にときめくとは思わなかった。

 

自分の好みを自覚したのは結構遅くて二十歳の頃だ。職場の休憩所にファッション雑誌が置いていて、街の女の子のスナップを集めたコーナーがあった。たいていの男はそういう類を見かけるとどの女の子がタイプかという話になる。それで自分が好ましく思う女の子を数人指差すと、「お前は前髪が揃っている女の子が好きなのか?」と言われた。改めて確認すると全員ぱっつんであった。この時、始めて自分の好みを自覚した。

 

振り替えれば子供の頃からその気があった。当時、魔方陣グルグルという漫画があって、単行本をもっていたわけではなく、何故かSFC版のゲームが家にあり、兄がプレイしているのを横でながめていた。同作品にククリというヒロインがいる。

魔法陣グルグル ククリ - Google 検索

 

彼女を見る度に不思議な気持ちに駆られた。目が離せないのに照れるような、落ち着かなくなって、胸がざわざわする。これは、中学生の時、前述のZARDのCDジャケットを見た時も同じだ。綺麗な人だからと思っていたが、私にとってドンピシャだったのだ。

 

ともかくぱっつんてある。たぶん死ぬまでぱっつん好きのままだろう。ゆりかごから墓場までぱっつんだ。妻はいずれ別の髪型に変えるが、その時まで存分に前髪を愛でよう。それは私にとって幸せのひとつだ。

笑顔でいないと勘違いされる

久し振りに村上龍のエッセイを読み返した。いつ読んでも文章に魅力を感じる。プロの小説家なので当たり前ではあるけれど。エッセイに「寂しい人ほど笑いたがる」というタイトルがあって、2012年に書かれたものだ。飲み屋に行くと若者やおじさんの集団がいて、大声で笑いあっているのに何故か楽しそうには見えない。そのくせ終わり際にはやけに寂しそうに見える。三世代住宅の広告では、祖父母から孫まで何がおかしいのかわからないままニコニコしていて、まるで振興宗教のパンフレットみたいだと述べている。余計なお世話だよとツッコミたくなるが、思う事がある。

 

以前出社すると「お前は何でそんな死にそうな顔をしているんだ」と言われた。それなりに疲れているが、元気だよと思っていたが、どうも辛気くさい表情をしていたらしい。それが何度も続いたので挨拶する時は意識して笑顔をつくるように心がけた。正直、なんだかバカらしい。

 

皆から好かれている人は、笑顔が上手いと思う。職場でもそういう人は、すれ違う際に挨拶するだけでもとびきりの笑顔だ。それもつくり笑いなどではなく自然と出たものだ。目を細めしっかり前歯が見える。私はせいぜい口角をあげるくらいでたぶん目元は笑っていない。育ちが違うのだろうか。

 

高校で就職面接の練習で、もっと若者らしくハキハキしろとダメ出しされた。その度になんで笑顔で人間を判断するのだと憤っていたが、今ならわかる。明るい人は親しみを持たれやすく、陰気だと何を考えているかわからず、不気味である。それに高卒には能力なんて求められていない。単純に覇気があり、素直な方が会社にとって好ましい。これは世間一般においても同じだ。

 

私はおもしろくもないのに笑顔をつくるのは苦手だ。笑顔は人と人との潤滑剤だとは理解している。人と接する際はなるべく笑顔でいるようにしている。だが、どこかで似合わないことをしていると感じていて、自然と出来る(ように見える)人はすごいと思う。練習していけば自然に出来るかも知れないが、果たしてそれが自分にとってよいのか私はわからない。