高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

継父からみた「親子断絶防止法」

最近になって親子断絶防止法という法律が出来るかもしれないと知った。これは、離婚により親権を持たない親が、子どものとの交流をなくさないためのものらしい。日本では離婚時に親権者をどちらかに決めなくてはならない。親権で揉めた場合、裁判所が判断する。裁判所は子どもを養育できる方を親権者とする。なので、離婚前に子どもを連れて別居し、養育実績を作って親権を得る方法がある。酷いものでは虚偽のDVをでっち上げることもあるようだ。こうなると親権者に面会を拒否されると、非親権者はお手上げになってしまう。国際的に見ればどちらかの親だけが親権を持つこと事態あり得ないようだ。この法律について継父である私の立場で考えてみたい。

 

 家庭の状況によって考え方が違うと思うので、 私の現状を整理しておく。

 

  • 妻の離婚の理由は元夫のギャンブル癖とそれによる借金だった。生活費すらも勝手に使われ、その日の食事にも事欠くありさまで、電気やガスも止まった。
  • 暴力等のDVはなかった。
  • 離婚時に面会や養育費の取り決めはしていない。
  • 養育費は一度ももらっていない。
  • お互い連絡はつくが、相手から連絡が来たことがない。こちらからもしない。
  • 離婚時、長女は赤ん坊だった。私と養子縁組したときはまだ2歳なので、 私のことを父親だと思っている。
  • 妻は元夫には長女を会わせたくないといっている。私も会わせたいとは思わないが、要求があれば会わせなければならないと考えている。

 

最初にいっておくが、私はこの法案に賛成だ。離婚したとしても子どもにとっては親には違いない。正当な理由なく面会を拒否し続けたり、非親権者を貶めるような言動をすれば、子どもの心が非親権者から離れてしまうかもしれない。もし、子どもがある程度の年齢になり、面会を断ればもはや会うことはできなくなる。また、面会交流がある場合は養育費の未払いは少ないというデータもある。特に母子世帯の貧困率は高い水準にあるが、養育費の支払いが増えれば、(会わせたいか別として)少しは解消されるかもしれない。

 

この法案が成立すれば、私の家庭にどう影響するだろうか。前夫は妻の電話番号やLINEも知っているし、拒否しているわけではない。向こうからアクションがない状態なのであまり関係ないかもしれない。少なくともこちらから働きかける義務はなさそうである。しかし、面会を求めてきたらどうだろうか。面会権は子どもと親の権利だが、果たしては本当に会わせてよいのだろうか考えてしまう。

 

前述の通り、離婚の原因は借金とギャンブルで生活が成り立たなくなったからで、妻に金を借りさせてまでのめり込むほどだった。そんな身勝手な人間に会わせて、子どもに悪影響はないとはいえない。なにせ生活費すら使い込む男だ。自分の利益しか考えてないかもしれない。また、妻が再婚したか知っているかはわからないが、再婚したとわかったら逆上する可能性もある。世の中には一度結婚した女は自分の物と思っている者も少なからずいる。私の家族に危害を加えるかもしれないし、そこまでではなくとも金を無心するかもしれない。もちろんこれらは私の想像でしかないが、信頼に値しない人間である以上、最悪のケースを想定しておかなければならない。

 

そもそも、自ら家庭を崩壊させておいて父親を名乗る資格があるだろうか。妻の借金にしても妻名義のものだし、養育費だって私と養子縁組しているので、支払う必要もないかもしれない。だが、法的にはいいのだろうが、人としての道理はどうなるのだろう。本当に反省しているのなら少なくとも妻に背負わせた利息を含めた借金を全額返済するべきだし、私と結婚するまでにかかった養育費だって払う義務があると思ってしまう。勘違いしないで欲しいが、私は金が欲しいのではない。反省しているかは口先や態度ではわからないので、わかる形で示してもらいたいだけだ。

 

親子断絶防止法は子どもに会いたいという切なる願いが込められている。離れていても愛する我が子には違いない。この法案はそういった親(あるいは子)を救済するためのものだろう。ただ、世の中には離れた方がいい親が少なからずいるのも事実だ。暴力などのわかりやすいものではなくとも、モラハラだったり経済DVだったり、親としての資格が疑われるものもいる。だいたい、父親としての役目は私がしているし、進学の費用も毎月貯めている。もし、妻が離婚していなければ悲惨な事態になっていたのは容易に想像できる。長女にはまだ私が本当の父親だと打ち明けていないが、それは今の状態で家庭が安定しているからで、下手に話せば長女を混乱させてしまうと思うからだ。恐らくだが、私のように子どもが幼いうちに養子縁組した家庭は、理解できる年齢になってから話す家庭が多いのではないだろうか。私は面会のために長女に本当のことを打ち明けろと言われたら、頭ではわかっていても、とても納得出来そうにない。

 

もう一度いっておくが私はこの法案に賛成だ。離婚時にきちんと面会や養育費の取り決めを提出しなければならないことや、子どもの幸せを優先させる内容は素晴らしいことだ。ただ、両親が揃って(交流があれば)絶対に幸せになるとは思わないし、再婚してやっとまともな生活を手に入れた場合もあるだろう。百の家庭があれば百の事情があるので、様々なケースに対応できるフレキシブルな法律になることを期待したい。

ウィンドウショッピングは苦手だ

私はウィンドウショッピングが苦手だ。特に買うものがないのにだらだらと歩き回るのは趣味ではない。欲しいものがあって下見で行くのならいいのだが、ただ見るだけだといらいらしてしまう。結婚した当初は自分がそんな性質だとは知らなかったので、なんで俺はこんなにムカムカしているのだろうと思った。それで妻とよく揉めたりもした。

 

感情を殺す仕事 - シロクマの屑籠 

こちらの記事を読んでなるほどと思った事がある。人間は喜怒哀楽があるが、社会においては怒と哀は慎むものであり、押し殺さなければならないと「教育」される。そのように抑圧された感情は歪んだ形で親から子へ受け継がれていく。恐らくだが、感情はコントロールすべしという思想が、間違った形の叱らない教育に繋がっていたりするのだろう。

 

最近はないのだが、妻は私とケンカになって怒りが溜まるとよく頭を冷やすといって、30分ほど出ていくことがあった。また、悲しみのあまりに泣き出すと、まるで子どものように大声で泣く。これも妻なりの心の防衛術なのだろう。

 

私は行列や人混みも苦手なので、ショッピングモールなど賑わう場所に行くときは、空いている時間を選ぶ。子供が商品を触ったり、あまつさえ落として壊したりされると最悪なので、雑貨屋や食器屋などの小さい店には、子どもをどちらかが見ておき交代で入るようにしている。私は一度もイライラするとなかなか気分が戻らないタチで、それで家族でのお出かけをパーにしたことが何度かある。情けない話なのだが自分の性質をどうも変えられそうにはない。なので、感情を抑えこむよりかは、状況や行動をコントロールした方が私にはあっている。自分の性質を理解したうえでうまく付き合うのも「大人のやり方」なのかもしれない。

焦燥感と情熱のあいだ

上遠野浩平の小説「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター」という作品の中で、こんな描写がある。登場人物の飛鳥井仁は人の心の形を、バラの花のイメージでみることができる。彼は従姉妹の少女を「基本的に優秀だが冷めたところがあり、他人のどうでもいいような情熱を羨ましいと感じている」と評していた。正直うろ覚えなのだが、私はどきりとした記憶がある。

 

私は昔から何かに熱中したり、一心不乱にのめり込むことはなかった。読書だけは好きだったが、絶対的な趣味ではなかった。今はかなり読書量も減ってしまった。

 

まだ十代、特に中学生の頃は焦燥感があった。クラスメイトには電車が好きで遠方まで見に行ったり、ノートにマンガを描いては持ってきた者もいた。そういう同級生を見るたびに、俺にはなぜ何もないのだろう、何かしなくてはと思うほど、自分には才能も情熱もないと思い知らされてしまった。働くようになってからも変わらず、スノーボードや自転車に手を出したが、やはり長続きしない。そのうち自分はなにも楽しめない人間なのかと己を呪う気持ちになった。

 

今にして思うのだが、人生をおもしろ楽しく謳歌しなければ駄目だという脅迫観念に近いものにとらわれていたのかもしれない。あるいは夢を、目標を、やりがいを持たなければならないと思い込んでいたのだろう。

 

小説家の村上龍は、エッセイ「ラスト・ワルツ」でこんなことを言っていた。

「夢というか、人生における目標は、中学校のころに持つことができればそれに越したことはない。持たないより、持ったほうがいい。だが、わたし自身の話をすれば、夢なんかなかったし、目標もなかった。興味があるのは、女の子とか、映画とか、文学とか、そのくらいで、勉強も嫌いだった。無理して夢なんか持つ必要はないし、夢や目標がないからといってがっかりすることも不安になることもない」

 これは村上龍が中学校で依頼されて講演した際、 生徒達から予め集めてもらった質問に対しての話だ。もし、中学生の私がこの話を聞いていたらきっと救われていたかもしれない。

 

今は結婚して子供もいるので時間的にも金銭的にも余裕がない。夢や目標なんていっている暇はないのだが、不思議と焦燥感はない。単純に大人になったからともいえるが、出来る事が限られているので、逆にやれる事はやってみようという気持ちになる。今まではそんなことしてどうするんだという事も、興味があるならとりあえずやるか、くらいのノリだ。このブログもそのひとつだ。それで私の人生がどうなるわけでもないだろうが、回り道も悪くない。

 

村上龍は先の講演で保護者からの「どうやったら子どもの適性を活かした仕事に就くように動機付けをすることができるでしょうか」という質問にこう答えている。

「好きなこと、自分に向いたことは、探すものではなく、出会うものなので、今は好奇心を摘まないようにして、見守っていればいいのではないでしょうか」

 

 

連れ子を養子にした私が(今のところ)うまくいっているわけ

長女と養子縁組してから2年半たった。いろいろあったが、なんとかやってこられたと思う。次女(実子)が産まれた今、血の繋がらない親子としてうまく暮らせている訳を振り返りたい。先にいっておくが、誰にでも当てはまるわけではないだろうし、この先はどうなるかわからない。あくまでも今現在の話だ。

 

1  本当の父親から一度も連絡がない

 

妻が離婚してから5年は経つが、向こうから連絡が来たことはないらしい。離婚の理由は詳しくは説明しないが相手の有責だ。養育費も一円ももらっていない。クリスマスも、子供の誕生日ですらも連絡がない。人の親としてどうかとは思う。だが、そんな親は多いらしい。6割の母子世帯が養育費を受け取ったことがないようだ。しかし、クズといえども親は親だ。どれだけ愛する覚悟を決めようとも、やはり本当の親の存在は大きい。実父と交流がないことが果たしてそれでいいのかわからないが、私にとってはプラスだ。

 

2 結婚に反対する者がいなかった

 

実のところこれが一番大きいと思う。子育ては実子であれ養子であれ、周囲のサポートがなければ非常に大変だからだ。妻は事情があって両親がいない。というか両親については顔すら知らない。反対する者もいなかった。一方私の方だが、父は数年前に女を作って出ていってしまったのでこちらは除外する。親戚付き合いはなかったので、問題は母だけだった。電話で結婚すると伝えたとき(もちろん子持ちであることも含めて)、母は驚きはしたものの、特に反対はしなかった。母は長女をよく可愛がってくれている。長女の誕生日にはプレゼントを買ってくれたり、保育園のイベントにもよく顔を出してくれた。初孫である次女が産まれてもそれは変わらず、私達家族を陰日向にサポートしてくれている。これについては本当に感謝している。

 

3 妻と私はもともと知り合いだった

 

私と妻は高校生からの知り合いで当時はよく一緒に遊んでいた。妻が両親がいないことも知っていたし、どんな考えを持ち、どんな性格かわかっていた。昔からの共通の話題も多い。1から信頼を築くよりも容易かったと言える。 

4 子供がまだ幼かった

 長女が3歳のときに私の養子にした。当然長女は私が本当の親だと思っている。(そもそも義理の親など理解できないだろう) 理解できる年頃だったなら、今ほどうまくやれてないかもしれない。私は長女が18~20歳くらいになったら養子にだと話すつもりだが、人によっては幼いうちから少しずつ教える人もいるだろう。どちらがいい悪いではなく家庭環境や子供の個性を見極めて判断すべきだ。

 

 

 

思い付くまま書いてみたが、 改めて私は運がいい。連れ子結婚は少しの障害も、うまくいかない理由になる可能性がある。特に身近に反対する者がいるならなおさらだ。(実は遠い親戚は私の結婚に反対と耳にしたが、顔すら知らないのでどうでもいい) 私と妻には何の障害もなかったので、自分達の気持ちの問題だった。逆にいえばどれだけ本気であろうと、周囲の状況次第では不幸な結果になってしまうかもしれない。もし、連れ子結婚を考えるなら自分の環境を見直してみるべきだろう。

血の繋がりは大切なのか

先日、会社の人と話をしているとき、こんなことを聞かれた。

 

「やっぱり、自分と血が繋がっている子の方がかわいいよな?」

 

別に悪意があってそう聞いた訳ではないだろう。ただの一般論だ。私はあんまりそんな風に思わないと答えた。

 

私は妻が妊娠したとわかってから、分け隔てなく愛情を注げるだろうかと考えた。もちろん、長女を養子にするときに覚悟はしていた。実の子ですらも差をつけたりするので、私の場合はなおさらあってもおかしくない。私は不安だった。

 

父親は子供が産まれないと父としての実感がわかないというが、私も同じだった。ただ、我が子が育っているというより、自分の遺伝子をもった生物が大きくなっていると感じた。変な話だが、自分の分身とは思えなかったのだ。妻にそれをいうとわりと怒られもした。あんたの子供だよ、と。

 

産まれてからもそれは変わらなかった。顔は私と似ていると思う。しかし、親と子という関係よりは、私は私、子供は子供といった独立した関係だと意識がある。私の遺伝子を持っているだけだと。

 

人によっては大切な事だろうが、私には思ったほど価値はない。自分の遺伝子が後世に残ろうとも、私はいずれ死んでしまうし、死んだらそれで終わりだ。お金が降って来るわけでもない。私はどこまでも自分本位なんだなとあきれるくらいだ。でも、それくらいが丁度いいのかもしれない。少なくとも子供には不自由はさせてないわけだし。

 

私の好きな小説「終戦のローレライ」では、絹見艦長が潜水艦と共に沈むとき、子を成しておくのだったと後悔していた。私も晩年になって、子を作ってよかったと思うのだろうか。生物としてはそれが正しいのだろう。私はオスとして間違っているのかもしれないが、今はそれでいい。血縁で悩み過ぎたり、虐待なんかするよりかずっといいと実感している。

恨みはないが死んでくれたら楽だ

次女が産まれて2ヶ月経つ。長女は五歳にしてはよくお手伝いをしてくれている。空回りする時もあるが、かわいらしいものだ。長女は妻の連れ子で私と養子縁組したが、今のところ血の繋がりを気にしたことはない。案外どうとでもなるものだと思う。

 

長女が私の子供ではない以上、当然実の父がいる訳だが、一度も連絡が来たことがない。妻の再婚を知っていると思うが、どうでもいいのだろうか。

 

妻が離婚した理由は、前の旦那(長女の父)がギャンブルに金をつぎ込んだからだ。仕事もろくに続かなかったようだ。借金のし過ぎで金を借りられなくなったので、妻にも借金させたりした。どうにもならなくなったので、妻は離婚を決断したわけだ。

 

よくあるダメ人間だが、それでも長女の父親には違いない。妻は絶対に会わせたくないと言っている。気持ちはわかるが、面会権は親と子の権利なので、連れ去りや虐待等の理由がない限りは拒否することはできない。もちろん、私としてはわ会わせたいとは思わない。そもそも自ら家庭をめちゃくちゃにした男だ。父親を名乗る資格はないだろう。

 

今は何も接触して来ないのでいいのだか、この先はどうだろうか。どこかのタイミングで会いたいと言い出すかもしれない。子供もそれを望むかもしれない。しかし、継父としては、死んでいてくれたらいい。人間性が変わっていないのなら、長女にとって会うメリットよりもデメリットが大きいと思う。私には再会を止められないが、死んでしまえばそれで終わりだ。血の繋がりは想像以上に影響力がある。どんなに最悪な親でも、その影響力から逃れるのは難しい。長女にはそんな男のために苦しんで欲しくはない。借金で首が回らなくなって、自殺してくれたらいいのにと、そう思ってしまうのだ

私はコウ・ウラキでイメージした

もう何年も前になるが、友人からFate/Zeroの書籍を貸してもらったことがある。TYPE-MOONのPCゲーム「Fate/stay night」のスピンオフ作品で、最初は同人誌として販売された。(書店では売られていなかった) 友人はどこからか同人誌版を入手し、とても面白いからと私に貸してくれたのだ。私はそもそも、大元のstay  nightをプレイしたことがなかったが、前日譚にあたるから知らなくても大丈夫ということで、借りさせてもらった。緻密な設定と濃厚な話にすっかり惹き付けられた私は、かなり長い話だったが二晩で読み終えてしまった。その後放映されたアニメ版もすごいなぁと思いながら鑑賞した。作り手の熱意が伝わる作品は、何かしらの響くものがある

 

私はFateシリーズは全然知らなかったのだが、空の境界はなぜか持っていた。空の境界は、Fateシリーズのシナリオライター奈須きのこによる同じ世界観を持つ小説だ。こちらも結構なボリュームがあって読み応えがあった。先の友人にお礼として貸してみようとしたが、断られてしまった。理由を聞くとキャラクターのイメージが出来ないからと言われた。

 

Fate/Zeroの同人誌版は、表紙はもちろん、口絵にはキャラクター紹介や場面のイラストが描かれている。サーバントにいたってはパラメーターや宝具の解説まであった。それが4冊分である。一方空の境界は表紙こそは主人公が描かれているが、挿し絵がほとんどない。各章に申し訳ない程度にイラストがあるだけで、それすらも満足な情報量ではない。キャラクターをイメージしろといれても、難しいかもしれない。

 

私は中学生の頃、銀河英雄伝説を読んだ。説明不要の田中芳樹による大作SF小説だ。私が読んだのはトクマノベルズ版で、登場人物が600人以上出てくのにキャラクターイラストが皆無だったので、誰が誰だか混乱した。(私はその時、アニメ版があることを知らなかった) 仕方がないので、当時はまっていたスーパーロボット大戦というゲームから適当なキャラを当てはめて読んでいた。主人公の一人であるヤン・ウェンリーはアジア系だったので、同じアジア系のコウ・ウラキ(機動戦士ガンダム0083の主人公)を当てはめたのだ。後に全然似てもに似つかなかったのを知ったが、私はよく別の作品のキャラクターをイメージする読み方をしていたのだった。

 

妻は相変わらず読書が苦手だ。文章が頭に入ってこないらしい。おそらくだが、 書かれている言葉を、頭の中にイメージ出来ないのだと思う。おまけに語彙が乏しいので、言葉をひとつひとつ理解しながら読み進めなければならない。だから疲れて読みきれないのだろう。映像化済みの作品ならなんとかなるのだろうか。