高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

衝動を待ち続けている

昨年の暮れにある音楽番組がやっていた。音楽番組といってもプロのミュージシャンが出演するのではなく、一般の方が歌のうまさを競っていた。ウッチャンナンチャンがMCを務めていたが、久しぶりに揃っているのが印象的だった。内容も結構本格的で、当然ながら皆とても歌が上手い。今度デビューする新人だと言われても全く違和感がないくらいだ。どちらかといえば若い方が多かったが、小学生から現役の医者まで、多様な人が出ていた。

 

きっと私にはわからないくらい猛練習したはずだ。優勝したのは女子中学生でミュージカルの曲を歌った。感情的に歌い上げてとても素人とは思えなかった。これくらい歌が上手ければきっと楽しいだろうと思った。彼女だけでなく、予選敗退した人々も歌が好きなのだろう。それほどの熱意は私にはない。

 

いったい、そういう情熱はどこから来るのだろう。何かのきっかけがあったのか、それとも気づいたらのめり込んでいたのか? 頭で考えるようなことではないかもしれない。

 

クリス・ギレボー著、本田直之監訳の「一万円起業」では、自分の得意なこと、好きなことをビジネスにしようとある。本著に限らず、同じように説く人は多い。その考え方は圧倒的に正しい。やはり夢中になって取り組める方がいいに決まっている。しかし、情熱を持たない、持てなかった私にはまるで夢の様な話だ。

 

そもそもそういったものにどこで出合うのだろうと考えているとこんな記事を見かけた。

 「やりたいことがない人」がなぜ、企業にとって魅力的な人材ではないのかを説明する。 | Books&Apps

 

この記事では「野心」という言葉が使われているが、私が求めているものに近い。野心についてこう解説している。

 

だが、冷たいことを言うようだがそれは単なる勉強不足、経験不足である。なぜなら、野心は、高度な勉強や多様な体験から生まれるからだ。

 

先人の残した研究や知見を学び、実際にそれを現場で見て、触って確かめ、自分自身の試みを適用してフィードバックを得る。そして、その中から、「野心」が生まれる。

 

私はまだ、心捕まれる様な何かに出会っていない。つまり今の環境では見つけられないということだ。出会うためには転職したり勉強する必要がある。単純にすむ場所を変えてもいいかもしれない。いずれにせよ、色々と試すしかない。私はいつか来るかもしれない衝動を待ち続けている。

実子も養子もかかる労力は変わらない

次女が産まれて半年たった。正月早々から私と次女がアデノウィルスにかかってしまって大変だった。妻は看病でくたくたで、長女をどこにも連れていけなかったので申し訳なく思っている。その次女なのだが、今はもうほぼ治っているが、アデノウィルスのせいで40度まで熱があがるし、特に鼻づまりが酷かった。赤ちゃんは口で呼吸すると咳き込んでしまい、うまく眠れないどころか飲んだミルクを吐いてしまい、見るからに痛ましい。抱っこしないと落ち着かなかったが、私も寝込んでいたのでずっと妻が付きっきりで面倒をみていた。ほとんど睡眠がとれないのでふらふらだったが、妻はよく頑張っていた。本当に感謝している。

 

私はごくたまにだが、Googleで「連れ子」とか「養子」で検索する。特に深い意味はないが、世間的にどう思っているのだろうと気になるのだ。やはりというか、連れ子を愛せるだろうかとか、あるいは連れ子と上手く関係を築く方法、法律相談なんかもある。みんな悩んでいるんだなぁなんて思う。連れ子結婚といっても条件によって様々なので一概にはくくれないが、多分私は運がいい方なのだろう。前にもこんな事を書いた。

連れ子を養子にした私が(今のところ)うまくいっているわけ - 高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

 

 

次女はこれから色々な病気にかかったり怪我をしたりする。(無論長女もだが) その度にてんやわんやしながらなんとか乗り越えていく。子育ては面倒臭く、その見返りもあるかわからない。いや、見返りなんて期待してはいけないのかもしれない。なら親のすべきことは何だろうか。そもそも親とは何だ? 子どもができたら親なのか? なら長女の実父はいままで何もしてこないが、それでも親と呼べるのか? そんな事をぼんやり考える。結局、健康だったらそれでいいやみたいな結論に達する。少なくとも実子だろうと養子だろうと同じ人間なのだからかかる手間は変わらない。正確には子どもの個性や相性で大きく変わってくる。でもそれは実子でも一緒なはずで、血が繋がっているのにとても仲が悪いなんてよくある話だ。

 

今、私の目の前で妻と、長女と、次女の三人が静かに眠っている(現在23時) 子どもたちの顔を見比べても、姉妹なだけあって少し似ているなと思うくらいだ。実子の方が可愛いと感じる人もいるのだろうが、私にはあんまりない。だいたい子どもだって欲しいと思わなかった。自分さえ良ければそれでいいはずだったが、なんの因果か二人も子どもがいる。血の繋がりは、ただ遺伝子情報を持っているだけで、それだけの事と考えている。それよりも子どもたちに何を教え、伝えていくかの方がよほど大切だ。この考え方は、学生時代にやった「メタルギアソリッド2」の影響が大きい。いわゆる「Meme」というやつだ。ミームとは人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり、例えば習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる様々な情報を意味する科学用語である(wikipedia調べ ) 私は影響を受けやすい方なのだが、ミームは私の奥底に根付いており、それが子育ての根幹になっている。だから血の繋がりに、大して興味がないのだろう。けれど、この考え方は連れ子結婚にはアドバンテージがあるというか、適合していると思っている。まぁ妻と子どもたちが幸せならそれで十分だ。

読書嫌いに読書スキルを習得させることができるか

こたつでデービッド・アトキンソン氏の「新・所得倍増論」を読んでいたら妻に「それの何が面白いの」と尋ねられた。私は面白さだけで読んでいる訳じゃないと答たが、ちょっと気になって読んでみたいのかと聞いた。てっきり、そんなの難しいからいらないと言われるかと思ったら「読んでみたいけど理解できないし、眠くなる」と言った。普段なら、頑張って読めばいいのにと思うだけだ。しかし、もしかしたら「読む気がない」のではなく「読む能力」が育っていないのかもしれない。

 

 

 私は「新・所得倍増論」と一緒にルポライターの鈴木大介氏の「脳が壊れた」を買った。鈴木氏は「最貧困シングルマザー」や「ギャングースファイル 家のない少年たち」など、貧困や犯罪に染まる社会の最下層の人々を主に取材している。この「脳が壊れた」は、四十一歳で右脳に脳梗塞を発症し、高次脳機能障害が残った鈴木氏本人の闘病記だ。高次脳機能障害について鈴木氏はこう解説している。

 

 高次脳機能障害とは、脳梗塞=脳の血管に血の塊が詰まって脳細胞が損傷することで起きる障害の一群で、手足などの身体の麻痺とは別に様々な問題が起きてくることを言います。

例えば、記憶障害・注意障害・遂行機能障害認知障害等々。こうした一連の神経心理学的障害は、脳卒中(脳梗塞脳出血を含めて言う)のみならず、事故による脳の外傷などでも残る後遺症なのだそうです。

 

鈴木大介 「脳が壊れた」まえがきより 

 

 

鈴木氏に残った後遺症に「半側空間無視」というものがある。鈴木氏は視界の左側の世界を「見えていても無視」したり、左側への注意力を持続するのが難しくなってしまった。なので左側から右側に物体が移動するとまるで突然視界に表れたように見えるのだ。決して視力がなくなったのではない。いわばアハ体験や間違い探しのように、見えているのに認識していない状態になってしまっている。さらに左側への認識が困難になったことで、右方向に対する注意力が過剰になってしまった。結果的に、一度注目してしまうと、そこを「じと~」っと見続けてしまうようになり、まるで喧嘩を売っているように見えるのである。他にも体がうまくコントロール出来ない、本を読むと神経が疲れてすぐに睡魔が襲ってくる、レジで財布からうまく小銭が出せない、感情が爆発する等、日常生活に支障をきたしている。しかし、鈴木氏はこれらの後遺症は、彼が取材してきた人々にも見られたと指摘する。

 

 僕はこれまでの取材活動の中で、「環境的発達不全」と言えるような少年少女らに多く会ってきた。たとえば、過度のネグレクトや虐待家庭から逃亡して未成年で自立生活を送る売春少女、窃盗少年らの中には、フォークやスプーンの手で鷲掴みに握って食事をする子たちが少なからずいた。

彼らはその生い立ちの中で、「箸を使うという右手の発達トレーニング」すら与えられなかった者たちだった。

 また、同じく極端な機能不全家庭の出身者では、アスペルガー症候群(知的障害を伴わない自閉症スペクトラム)を疑うような、コミュニケーションや他者への気持ちへの理解を極端に苦手としたり、言語の延長線上に暴力があるような子たちも多く見てきた。

 だが、彼らのすべてが先天的な発達障害ではないことを知っている。(中略)

 当たり前の話だが、コミュニケーション力や他者への共感力なども、個人差はあれど多くは教育と訓練と経験の中で発達していくものであり、機能不全家庭の中で適切なコミュニケーションを経験せずに育ってきた彼らが対人関係において「発達不全」なのは障害てはなく自然な成り行きなのだ。 

 

鈴木大介 「脳が壊れた」より

 

鈴木氏はリハビリを続けることで後遺症が少しずつ回復していくが、それを発達の再体験・追体験と述べている。子どもが繰り返し練習して出来なかったことが出来るようになるのと同じというわけだ。ならば読書スキルだって同じではないかと思った。妻は事情があって幼少期から読書をする環境ではなかった。だが、これから鍛えていけばいい。子どもが読書スキルを得る過程として、絵本の読み聞かせ→自分で絵本を読む→児童文学→一般的な小説 だと思う。さすがに絵本から始める必要ないが、かといって児童文学もいまから読むのもどうだろうか。やはり敷居が低いライトノベル辺りから始めるのがよさそうである。アニメ化していて妻が観たことがあるならよりベターだ。先は長そうだが、やってみる価値はある。このブログで読んだ物を紹介していくつもりだが、同じように読書スキルで悩む人の参考になればうれしい。

映画 妖怪ウォッチ 現実VS虚構!

ここ何ヵ月で映画館で映画を観賞することが増えた。きっかけは「シン・ゴジラ」だ。ネット上でなんだか盛り上がっていて、観てみたのだ。実に庵野秀明監督らしい映画でとても面白かった。圧倒的な絶望感があって、1954年に初代ゴジラを観賞した人たちも同じ気持ちだったのかなと思った。クライマックスはもう少し盛り上げてもいいと思ったが、あれでいいのかもしれない。海外での受けが悪そうだったが(実際海外では苦戦している)、独特の作風が癖になって結局2回、劇場で観てしまった。

 

 

以来、月に何度か映画を観るようになった。といってもマニアになったとか、封切られた映画は全部観るとかではなく、あくまで自分が気になった作品だけだ。だから興味がなかったものでも評判が良ければ観たりするし、その逆もある。ワリと適当である。つい最近、映画でも観ようと上映中の作品を調べたのだが、めぼしいのはなくて、どうしようかと考えていたらTVCMで妖怪ウォッチの新作映画が流れていた。もちろん子ども向けなわけだが、アニメパートと実写パートがあるらしく、ただ実写化しただけではないようで興味がわいた。それでなんとなく「これでもいいかな」と言ったら、長女がそれに反応して観たいとせがまれ、見に行くはめになってしまった。

 

 

私はてっきり、アニメの世界と実写の世界があって、二つの世界がごっちゃになる話だと思っていたのだが少し違っていた。天野ケータ達がアニメパートと実写パートを切り替えながら謎を解いていく内容で、アイデア自体は物珍しいものではないが、実写パートでの妖怪CGの違和感のなさには感心した。表と裏の世界を行き来しながらクリアしていくテレビゲームを彷彿させ、妙に懐かしい気持ちになった。実写パートではアニメのような並外れた行動が出来ない。逆にアニメパートならなんでもありなので、実写世界の人間で、キーパーソンの南海カナミが自分の想いを叶えようとしたり、アニメ⇔実写の世界をしっかり生かしたストーリーで、子ども向けながらよく出来ている。不満足な部分もあるが、観て損はなかった。(今作のボス、クジラマンがスタンドっぽいデザインなのが笑った) 最後にエンドロールが流れるが、そういえば私の父はエンドロールは見ない人だったなとぼんやり思い出した。

 

 

私がまだ子どもの頃、シネコンはまだ主流ではなく、座席や時間の指定も完全入れ換え制もない。なので映画館に着いたときは本編が始まっていたし、繁盛期には立ち見が当たり前だった。今はもうその映画館はなくなってしまって、どんな外観かも忘れてしまった。スクリーンから一番後ろの座席まで異様に遠く感じて、今でも映画館=巨大というイメージがある。梅田のミニシアターに始めて行ったとき、スクリーンの小ささ、座席の少なさ、天井の低さに驚愕した。父はたまにだが、ドラゴンボールとかドラえもんの映画に兄弟たちと連れていってくれた。本編はもう始まっていて途中から観るわけだが、当然最初の部分はわからない。なのでもう一度始めから見直すが、途中の観始めたシーンになると連れて帰らされてしまった。私は子どもながらに通しで観たかったが、反抗出来るわけもなかった。どんな映画を観たかも覚えてないが、残念だなという感情はあった。

 

 

長女とは初めて二人だけで映画を観たが、いずれ記憶の片隅に仕舞われるだろう。次第に細部までは思い出せなくなり、映画を観たことと、そのときの感情だけが残るのかもしれない。それすらも、そのうち別の記憶と取り違えたり、変質したりする。そこまでいけばもはや実際にあった「現実」ではなく「虚構」になってしまう。そんな風に沢山の思い出を変質されながら大人になっていく。でもそれは悪いことではない。現実は無慈悲だ。大人ならば辛い事とも向き合わなくてはならない。そんなときに胸にある「虚構」が「現実」に対抗する手段になるのではないか。もちろんネガティブな「虚構」を持ちすぎるとそれに飲み込まれてしまうかもしれないけど。まとまりがなくなったが、「虚構」という言葉を使いたかったのと、子どもにはいい思い出を残してやりたいという、それだけの話だ。

夢が見たくば金を出せ

映画「この世界の片隅で」を見た。内容はとても素晴らしかったのだか、いかんせん上映している映画館が少ないので梅田まで行かなければならなかった。自宅からは電車で1時間ほどなので決して遠いわけではないが、普段は近所の映画館に行くので遠く感じたのだ。梅田は大阪の中でも洗練されている街だ。新幹線の停車駅である新大阪駅が近くにあるし、神戸にもアクセスがいいからだろうか。難波や天王寺とは違って垢抜けた雰囲気がある。クリスマスシーズンになり、街路樹はイルミネーションに彩られて、行き交う人々もなんだか幸せそうだ。私は映画を観賞するためだけに来たので、財布には交通費くらいしか入れていなかった。チケットはWebであらかじめ払っているので不都合はなかった。しかし、ほとんどお金を持たずに梅田を歩いているとなぜか場違いな所にいる気がした。そしてあることを思い出した。

 

 

私がまだ一人暮らしをしていて、リーマンショックが落ち着いてきた頃の話だ。友人たちに遊びに行こうと誘われ、ボーリング場へ行った。私は当時お金があまりなく、それは友人たちも同じで、どうするのかと思ったら併設されているゲームセンターでただ駄弁っているだけだった。筐体の間をうろつき、他人がプレイしている様子を眺めたり、不毛な時間が過ぎていった。私は確か一万円くらい財布に入っていたが、貴重な生活費だったのでおごってやるとは言い出せなかった。そのうちに解散になった。

 

 

梅田(正確にはJR大阪駅周辺)は少し特殊な街だと思う。なんというか綺麗なものだけが集まっている。難波にもロケーションがいい場所やブランドショップはある。だが、ひとつ裏の通りに入れば、飲んだくれのおじさんや奇抜な格好の若者がいる。特に心斎橋は外国人もたくさん観光に訪れるし、飲み屋のキャッチもあるしでごった煮という感じだ。だからか金を持っていなくてもあまり気にならない。梅田にいると金を持っていないことを強く意識させられる。もし、手取り13万円しかなくて人生活が苦しい人が梅田に来たらどういう思いになるだろう。改めて厳しい現実を思い知らされて、余計に辛くなるのではないか。あまり梅田には行かないのでこれらの全ては私の勘違いかもしれない。ただ、梅田は少し残酷な街たなぁと、私は思ったのだ。

信じられるものひとつ

前回、ググれ!タカハシ - 高卒ブルーカラーの考えるあれこれという記事をかいた。ちゃんと調べて理解しないと、損することがあるよという内容だ。その中でメディアやWEBの情報は鵜呑みにしないとかいたのだが、よく考えるとこれは案外大変なのではと思った。なぜなら得られた情報を疑ったり、吟味し続けるのは体力がいるからだ。

 

 

私には子どもが二人いるが、子どもというのは基本的に親を無条件で信頼している。子どもは一人では生きていけないので親の庇護にに頼るしかない。なので親を信頼するのだろうと考えている。もし、悪意をもって子どもを騙し何度も裏切りを繰り返せば、恐らくだが、子どもの心は壊されてしまうだろう。つまり、信頼出来ない状況というのはかなりストレスがたまるのである。子どもだけでなく大人でも同じだ。妻は前の結婚では前夫に何度も裏切られた。妻はあの時は地獄だったといっていた。信頼出来る人がいる、安心して頼ることが出来るのは心の安定には不可欠なのだ。

 

 

現在、DeNAの医療メディア「ウェルク」が問題になっている。科学的に間違いだらけで、しかも大量の盗用があったからだが、もし、ウェルクを信じていた人がいるならどのような心境になるだろうか? 騙されたと怒るだろうか、こんな情報を信じた己の浅はかさを呪うだろうか。ウェルクだけではない。あらゆる情報が飛び交う現代社会で、それらに振り回されないためにはそれなりの能力が求められるが、簡単な話ではない。ウェルクならみんなが批判しているから分かりやすいが、場合によっては賛成意見と反対意見があったりする。国や信頼出来る研究所などが発表しているデータを当たって、自分の頭で考えなければならないこともある。そうなるともうついていけないので人は信じたいものしか見えなくなる。

 

 

自分で判断出来ないとどうなるのか。 多少損する程度ならまだいいが、ひどいものになると財産を奪われたり、心身に多大なダメージを負う可能性がある。なぜなら、悪い人間というのは弱っている人に甘い言葉を囁き、わかりやすい、信じやすいものを見せてくれるからだ。

 

 

しかしながら、頼るもの、悪くいえばすがれるものは人間にとって不可欠なのだろう。でなければ宗教がこれほど広まるまずもない。問題は何に寄りかかるかということだ。それが自分を正しく導いてくれののか、そうでないで人生の生きやすさは大きく違ってくる。

ググれ!タカハシ

先日、私と長女、私の友人でキャンプに行った。私はキャンプの経験がなく昔から憧れてはいたのだが、どうにも二の足を踏んでいた。友人もキャンプはしたことがない。特にテントは初心者では組み立てるのに時間がかかると聞いていたので、無理だと半ばあきらめていたのだ。しかし、こちらのサイト 住所不定キャンパーがお送りするキャンプ初心者の為の入門ブログ CAMP IN JAPAN!! を見て、やはりキャンプに行きたいという気持ちが強くなった。このサイトは初心者のためのキャンプについて解説していて、初心者が記憶しておく注意点やおすすめのキャンプ場を紹介していて、わかりやすくて良かった。

 

どうしてもキャンプをしたくなった私は、ものは試しだとキャンプ場に予約をとった。当然、大抵の道具はレンタルになるのだが、問題はテントとタープの組み立てだった。どのようなテントを借りられるかわからなかったので、ネットで動画を検索した。ネット上にはメーカーの公式動画から一般の人がアップしたものまでたくさんあり、私はそれらを片っ端からみて勉強した。結果だけいえば、キャンプ場で借りられたのはモンベルのムーンライトというテントで、私が調べた組み立て方と違ったので、あまり勉強した意味はなかった。管理人さんが教えに来て下さったのですぐに組み立てられた。しかし、ちゃんと調べておくことに越したことはないと思った。組み立て方に共通する部分もあったからだ。

 

 

 妻の知人にネットというか、ネット回線に疎い人がいる。私と妻は格安SIM(データ3G)とWiMAX2+のルーターでやっている。固定回線ではないのは、引っ越しする可能性があるのと、工事が面倒だからだ。もともと固定費を減らしたかったので、とにかくたくさん調べて、3大キャリアから乗り換えることにしたのだ。パソコンをよく使う、あるいはゲームするとかデイトレーダーなら安定した固定回線の方がいいし、外出先で通話をよくするなら楽天バイルなどの通話無制限などがいい(データ容量は少ないが) 人によって適切なプランは違うのでちゃんと理解しておかなければならないが、3大キャリアでも20G、30Gでコ通話無制限コースもあるのでなかなか難しい。先ほどの知人は自宅に固定回線があるのに無線LANルーターはなく、何故かキャリアからもらった月7G使えるルーターがあるらしい。よくわからなかったので聞いてみたのだが本人もよく理解してしていない。もし本当ならもらったルーターは無駄だし、知人は専業主婦なので、無線LANを導入すればスマホのデータプランは最低限ですむし、通信費を押さえられる。そう説明したのだが、要領を得なかったし、自分で調べたけどわからんといわれてしまった。

 

 

世の中には検索すれば無駄な出費を押さえられることがある。賃貸の場合、火災保険の加入は大抵必須なのだが、不動産屋から進められるものは高い。例えば日新火災保険の「家を借りるときの保健」とでは年間で四千円ほど違う。もちろん最近のウェルク騒動にみられるように、不適切な情報もたくさん紛れ込んでいるのでなんでも鵜呑みにすむのは危険だ。しかし、それらを見極める能力を含めて昨今では必要ではないだろうか。単純にググるのがうまい、と言い換えてもいい。しかし、その能力を得るためには結局ググり続けるしかないのではあるが。