高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

家庭不適合者の私と家族が欲しかった妻

結婚してもう3年経とうとしている。様々な出来事があったが、いまだに家庭というものに慣れない。勘違いしないで欲しいが、離婚したいとか嫌いになったとかそういう訳ではない。単純に私の気質の問題だ。

 

私の実家は今はもうオンボロになってしまったマンションだ。2LDKで家族6人が暮らしていた。各部屋は襖で仕切られているだけで、私には兄と弟、妹がいるが子ども部屋はなく、家を出るまで兄と弟とひとつの部屋で寝ていた。ちなみに妹と母が同じ部屋で、父はリビングに布団を敷いていた。プライバシーのプの字もなく、非常に苦痛だった。そのせいなのか、私は何かしているのを人に見られるのが苦手だ。本を読む、勉強をする、個人的な買い物、自分ですることに関しては、見られているとストレスを感じるのだ。それは結婚した今でも変わらない。

 

私は4年一人暮らしをしたが、思えば人生で一番充実していた。時間も金も体力も、全て自分のために使用できた。なんというか、自分自身に対する裁量権がとても大きいといえばいいだろうか。例えば食事にしても、料理を作る時もあるし、外食だったり食べなかったりした。どれを選択しても誰にも文句を言われない。ある時には食事を作るだけ作って食べずに寝たこともあった。ストレスが溜まったら(溜まらなくてもだが)、録画した深夜アニメをみたり、うまいラーメン屋に行ったりして発散できた。私は子どもの頃からよく熱を出していたが、ストレスが溜まらないせいか、ほとんど病気にならなかった。

 

妻は詳しくは説明出来ないので割愛するが、血縁者がいない。なので、家族というものに憧れがあった。前夫がどうしようもないろくでなしだったが、なかなか離婚出来なかったのはそれが理由だ。また、かなりの寂しがりやで、同じ家に暮らしているのに、私が別の部屋で作業をしていると、寂しくなって寄ってきたりする。酷い時には同じ部屋でもおきる。私とは正反対の性格だ。ひとりが好きな私とひとりが苦手な妻。なかなかままならないものだ。

 

そもそもこんな性格の私が何故結婚したのだろうとたまに自問する。単純にタイミングがよかったとか、適齢期だったからとか、もちろん好きだからというのもある。ただ、何か確定的な出来事があった訳ではない。いくつかの要素が重なって、まぁいいかなみたいな気持ちになったのは覚えている。結婚するときは案外そんなもので、むしろ劇的な展開があって結婚したという人の方が少ないのではないかと思う。

 

ひとつの家族になる以上、摩擦は避けて通れない。家族をうまく運営するためにはすり合わせが必要だ。妻に折れてもらったり子どもに我慢してもらう時もあるだろう。逆に私が彼女達のためにするべきこともたくさんある。家族とはとても面倒だが、それが醍醐味になっている側面もある。一人暮らしの方がよほど楽しく楽ではあるが、結婚した以上妻と子どもたちを幸せにしてあげたい。

 

最後に最近見かけた、まさにその通りだなと思ったツイートを紹介しておく。ストレスは溜め込むものじゃない。

私と娘とポッピンQ

娘にせがまれて映画「ポッピンQ」を見に行った。東映アニメーション60周年記念のプロジェクトとして製作されたアニメーション映画であり、随分と気合いが入っているようだ。

劇場アニメ「ポッピンQ」 | 公式サイト

一応ストーリーをWikipediaから引用しておこう。

 

通過点でしかないと思っていた卒業式を目前に控え、中学3年生の伊純は前に進めずにいた。そんな時、海で美しく輝く「時のカケラ」を拾った伊純は、不思議な世界「時の谷」へと迷い込む。そこで、同い年の蒼、小夏、あさひ、そして「時の谷」に住み「世界の時間」の運営を司るポッピン族と出合う。「時の谷」と「世界の時間」が今まさに崩壊の危機に瀕していた。

危機を脱するには、伊純たちの持つ「時のカケラ」を集め、心技体を一致させた「ダンス」を踊るしかないという。迫りくる危機と、ポッピン族の厳しいダンス指導に戸惑う伊純たち。そんな中、ダンス経験者の沙紀が現れるが……。

「時のカケラ」に導かれた5人はダンスで世界を救えるのか?そして、無事に卒業できるのか?

 

プリキュアにSFを混ぜこんだ様な作品で、ダンスシーンはプリキュアのエンディングでノウハウがあるのか、よくできていた。しかし、簡潔にいってどの層に向けたのか、何がしたかったのかよくわからない作品だった。あれこれ詰め込み過ぎで消化不良といってもいい。もっとシンプルにすべきだった。同じように思った方もいる。

映画『ポッピンQ』感想 この映画を女児向けと見るか、大友向けと見るか難しいところだ…… - 物語る亀

【ネタバレあり】ポッピンQの残念さについて考えてみた(辛口感想・レビュー) - 立て直せ、人生。

 

 

 子ども向けというには世界の時間や同位体の設定などわかりにくいし、大人向けにしてはダンスで世界を救うなんてお手軽過ぎる。決してダンスが駄目な訳ではないが、ダンスでなければならない理由が薄かった。途中でバトルシーンもあるが、はたして必要があったのかと思う。素直にダンスだけにして、キャラクターがぶつかり合い、葛藤を乗りこえてダンスを完成させる方がよかった。沙紀という一人だけ元からダンスが得意なキャラクターがいるが、ある理由で心を閉ざしている。5人でダンスを完成されなければならないため、彼女のトラウマを解消し、心を開かせなければならないが、その過程があまりに都合よすぎるのではと思えた。沙紀だけでなく他のキャラクターについても同様で、悩みや問題を克服する描写が純伊純以外ほぼない。そもそも世界を救うはずのダンスも、練習シーンはあるにしても、いつの間にそんなに出来るようになったんだよと思ってしまった。沙紀を含めた5人揃って練習したシーンはなく、ラストシーンで沙紀が「私に合わせて」の掛け声だけで踊れてしまっているのだ。あれこれやりたいのなら、テレビシリーズで丁寧に作って欲しかった。この作品はその方が合っていると思う。

 

プリキュアは毎年新シリーズが発表され、それに合わせて映画も製作される。映画版プリキュアはテレビシリーズを土台にして製作されるので、世界観やプリキュアになった理由等はわざわざ説明されない。しかし、ポッピンQは完全新作である。2時間という枠がある以上、詰め込められる内容には限界がある。

 

エンドロールの後、少しだけその後の映像が流れたが、続編を期待させる内容だった。しかし、はっきりとしたアナウンスがなかったので、実際のところどうかはわからない。ひとつひとつの要素が悪くなかったので、これからの作品展開に期待したいところだ。

 

最後に娘の感想だが、とっても面白かったと答えている。子ども向けとしてはこれでよかったのかもしれない。

衝動を待ち続けている

昨年の暮れにある音楽番組がやっていた。音楽番組といってもプロのミュージシャンが出演するのではなく、一般の方が歌のうまさを競っていた。ウッチャンナンチャンがMCを務めていたが、久しぶりに揃っているのが印象的だった。内容も結構本格的で、当然ながら皆とても歌が上手い。今度デビューする新人だと言われても全く違和感がないくらいだ。どちらかといえば若い方が多かったが、小学生から現役の医者まで、多様な人が出ていた。

 

きっと私にはわからないくらい猛練習したはずだ。優勝したのは女子中学生でミュージカルの曲を歌った。感情的に歌い上げてとても素人とは思えなかった。これくらい歌が上手ければきっと楽しいだろうと思った。彼女だけでなく、予選敗退した人々も歌が好きなのだろう。それほどの熱意は私にはない。

 

いったい、そういう情熱はどこから来るのだろう。何かのきっかけがあったのか、それとも気づいたらのめり込んでいたのか? 頭で考えるようなことではないかもしれない。

 

クリス・ギレボー著、本田直之監訳の「一万円起業」では、自分の得意なこと、好きなことをビジネスにしようとある。本著に限らず、同じように説く人は多い。その考え方は圧倒的に正しい。やはり夢中になって取り組める方がいいに決まっている。しかし、情熱を持たない、持てなかった私にはまるで夢の様な話だ。

 

そもそもそういったものにどこで出合うのだろうと考えているとこんな記事を見かけた。

 「やりたいことがない人」がなぜ、企業にとって魅力的な人材ではないのかを説明する。 | Books&Apps

 

この記事では「野心」という言葉が使われているが、私が求めているものに近い。野心についてこう解説している。

 

だが、冷たいことを言うようだがそれは単なる勉強不足、経験不足である。なぜなら、野心は、高度な勉強や多様な体験から生まれるからだ。

 

先人の残した研究や知見を学び、実際にそれを現場で見て、触って確かめ、自分自身の試みを適用してフィードバックを得る。そして、その中から、「野心」が生まれる。

 

私はまだ、心捕まれる様な何かに出会っていない。つまり今の環境では見つけられないということだ。出会うためには転職したり勉強する必要がある。単純にすむ場所を変えてもいいかもしれない。いずれにせよ、色々と試すしかない。私はいつか来るかもしれない衝動を待ち続けている。

実子も養子もかかる労力は変わらない

次女が産まれて半年たった。正月早々から私と次女がアデノウィルスにかかってしまって大変だった。妻は看病でくたくたで、長女をどこにも連れていけなかったので申し訳なく思っている。その次女なのだが、今はもうほぼ治っているが、アデノウィルスのせいで40度まで熱があがるし、特に鼻づまりが酷かった。赤ちゃんは口で呼吸すると咳き込んでしまい、うまく眠れないどころか飲んだミルクを吐いてしまい、見るからに痛ましい。抱っこしないと落ち着かなかったが、私も寝込んでいたのでずっと妻が付きっきりで面倒をみていた。ほとんど睡眠がとれないのでふらふらだったが、妻はよく頑張っていた。本当に感謝している。

 

私はごくたまにだが、Googleで「連れ子」とか「養子」で検索する。特に深い意味はないが、世間的にどう思っているのだろうと気になるのだ。やはりというか、連れ子を愛せるだろうかとか、あるいは連れ子と上手く関係を築く方法、法律相談なんかもある。みんな悩んでいるんだなぁなんて思う。連れ子結婚といっても条件によって様々なので一概にはくくれないが、多分私は運がいい方なのだろう。前にもこんな事を書いた。

連れ子を養子にした私が(今のところ)うまくいっているわけ - 高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

 

 

次女はこれから色々な病気にかかったり怪我をしたりする。(無論長女もだが) その度にてんやわんやしながらなんとか乗り越えていく。子育ては面倒臭く、その見返りもあるかわからない。いや、見返りなんて期待してはいけないのかもしれない。なら親のすべきことは何だろうか。そもそも親とは何だ? 子どもができたら親なのか? なら長女の実父はいままで何もしてこないが、それでも親と呼べるのか? そんな事をぼんやり考える。結局、健康だったらそれでいいやみたいな結論に達する。少なくとも実子だろうと養子だろうと同じ人間なのだからかかる手間は変わらない。正確には子どもの個性や相性で大きく変わってくる。でもそれは実子でも一緒なはずで、血が繋がっているのにとても仲が悪いなんてよくある話だ。

 

今、私の目の前で妻と、長女と、次女の三人が静かに眠っている(現在23時) 子どもたちの顔を見比べても、姉妹なだけあって少し似ているなと思うくらいだ。実子の方が可愛いと感じる人もいるのだろうが、私にはあんまりない。だいたい子どもだって欲しいと思わなかった。自分さえ良ければそれでいいはずだったが、なんの因果か二人も子どもがいる。血の繋がりは、ただ遺伝子情報を持っているだけで、それだけの事と考えている。それよりも子どもたちに何を教え、伝えていくかの方がよほど大切だ。この考え方は、学生時代にやった「メタルギアソリッド2」の影響が大きい。いわゆる「Meme」というやつだ。ミームとは人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり、例えば習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる様々な情報を意味する科学用語である(wikipedia調べ ) 私は影響を受けやすい方なのだが、ミームは私の奥底に根付いており、それが子育ての根幹になっている。だから血の繋がりに、大して興味がないのだろう。けれど、この考え方は連れ子結婚にはアドバンテージがあるというか、適合していると思っている。まぁ妻と子どもたちが幸せならそれで十分だ。

読書嫌いに読書スキルを習得させることができるか

こたつでデービッド・アトキンソン氏の「新・所得倍増論」を読んでいたら妻に「それの何が面白いの」と尋ねられた。私は面白さだけで読んでいる訳じゃないと答たが、ちょっと気になって読んでみたいのかと聞いた。てっきり、そんなの難しいからいらないと言われるかと思ったら「読んでみたいけど理解できないし、眠くなる」と言った。普段なら、頑張って読めばいいのにと思うだけだ。しかし、もしかしたら「読む気がない」のではなく「読む能力」が育っていないのかもしれない。

 

 

 私は「新・所得倍増論」と一緒にルポライターの鈴木大介氏の「脳が壊れた」を買った。鈴木氏は「最貧困シングルマザー」や「ギャングースファイル 家のない少年たち」など、貧困や犯罪に染まる社会の最下層の人々を主に取材している。この「脳が壊れた」は、四十一歳で右脳に脳梗塞を発症し、高次脳機能障害が残った鈴木氏本人の闘病記だ。高次脳機能障害について鈴木氏はこう解説している。

 

 高次脳機能障害とは、脳梗塞=脳の血管に血の塊が詰まって脳細胞が損傷することで起きる障害の一群で、手足などの身体の麻痺とは別に様々な問題が起きてくることを言います。

例えば、記憶障害・注意障害・遂行機能障害認知障害等々。こうした一連の神経心理学的障害は、脳卒中(脳梗塞脳出血を含めて言う)のみならず、事故による脳の外傷などでも残る後遺症なのだそうです。

 

鈴木大介 「脳が壊れた」まえがきより 

 

 

鈴木氏に残った後遺症に「半側空間無視」というものがある。鈴木氏は視界の左側の世界を「見えていても無視」したり、左側への注意力を持続するのが難しくなってしまった。なので左側から右側に物体が移動するとまるで突然視界に表れたように見えるのだ。決して視力がなくなったのではない。いわばアハ体験や間違い探しのように、見えているのに認識していない状態になってしまっている。さらに左側への認識が困難になったことで、右方向に対する注意力が過剰になってしまった。結果的に、一度注目してしまうと、そこを「じと~」っと見続けてしまうようになり、まるで喧嘩を売っているように見えるのである。他にも体がうまくコントロール出来ない、本を読むと神経が疲れてすぐに睡魔が襲ってくる、レジで財布からうまく小銭が出せない、感情が爆発する等、日常生活に支障をきたしている。しかし、鈴木氏はこれらの後遺症は、彼が取材してきた人々にも見られたと指摘する。

 

 僕はこれまでの取材活動の中で、「環境的発達不全」と言えるような少年少女らに多く会ってきた。たとえば、過度のネグレクトや虐待家庭から逃亡して未成年で自立生活を送る売春少女、窃盗少年らの中には、フォークやスプーンの手で鷲掴みに握って食事をする子たちが少なからずいた。

彼らはその生い立ちの中で、「箸を使うという右手の発達トレーニング」すら与えられなかった者たちだった。

 また、同じく極端な機能不全家庭の出身者では、アスペルガー症候群(知的障害を伴わない自閉症スペクトラム)を疑うような、コミュニケーションや他者への気持ちへの理解を極端に苦手としたり、言語の延長線上に暴力があるような子たちも多く見てきた。

 だが、彼らのすべてが先天的な発達障害ではないことを知っている。(中略)

 当たり前の話だが、コミュニケーション力や他者への共感力なども、個人差はあれど多くは教育と訓練と経験の中で発達していくものであり、機能不全家庭の中で適切なコミュニケーションを経験せずに育ってきた彼らが対人関係において「発達不全」なのは障害てはなく自然な成り行きなのだ。 

 

鈴木大介 「脳が壊れた」より

 

鈴木氏はリハビリを続けることで後遺症が少しずつ回復していくが、それを発達の再体験・追体験と述べている。子どもが繰り返し練習して出来なかったことが出来るようになるのと同じというわけだ。ならば読書スキルだって同じではないかと思った。妻は事情があって幼少期から読書をする環境ではなかった。だが、これから鍛えていけばいい。子どもが読書スキルを得る過程として、絵本の読み聞かせ→自分で絵本を読む→児童文学→一般的な小説 だと思う。さすがに絵本から始める必要ないが、かといって児童文学もいまから読むのもどうだろうか。やはり敷居が低いライトノベル辺りから始めるのがよさそうである。アニメ化していて妻が観たことがあるならよりベターだ。先は長そうだが、やってみる価値はある。このブログで読んだ物を紹介していくつもりだが、同じように読書スキルで悩む人の参考になればうれしい。

映画 妖怪ウォッチ 現実VS虚構!

ここ何ヵ月で映画館で映画を観賞することが増えた。きっかけは「シン・ゴジラ」だ。ネット上でなんだか盛り上がっていて、観てみたのだ。実に庵野秀明監督らしい映画でとても面白かった。圧倒的な絶望感があって、1954年に初代ゴジラを観賞した人たちも同じ気持ちだったのかなと思った。クライマックスはもう少し盛り上げてもいいと思ったが、あれでいいのかもしれない。海外での受けが悪そうだったが(実際海外では苦戦している)、独特の作風が癖になって結局2回、劇場で観てしまった。

 

 

以来、月に何度か映画を観るようになった。といってもマニアになったとか、封切られた映画は全部観るとかではなく、あくまで自分が気になった作品だけだ。だから興味がなかったものでも評判が良ければ観たりするし、その逆もある。ワリと適当である。つい最近、映画でも観ようと上映中の作品を調べたのだが、めぼしいのはなくて、どうしようかと考えていたらTVCMで妖怪ウォッチの新作映画が流れていた。もちろん子ども向けなわけだが、アニメパートと実写パートがあるらしく、ただ実写化しただけではないようで興味がわいた。それでなんとなく「これでもいいかな」と言ったら、長女がそれに反応して観たいとせがまれ、見に行くはめになってしまった。

 

 

私はてっきり、アニメの世界と実写の世界があって、二つの世界がごっちゃになる話だと思っていたのだが少し違っていた。天野ケータ達がアニメパートと実写パートを切り替えながら謎を解いていく内容で、アイデア自体は物珍しいものではないが、実写パートでの妖怪CGの違和感のなさには感心した。表と裏の世界を行き来しながらクリアしていくテレビゲームを彷彿させ、妙に懐かしい気持ちになった。実写パートではアニメのような並外れた行動が出来ない。逆にアニメパートならなんでもありなので、実写世界の人間で、キーパーソンの南海カナミが自分の想いを叶えようとしたり、アニメ⇔実写の世界をしっかり生かしたストーリーで、子ども向けながらよく出来ている。不満足な部分もあるが、観て損はなかった。(今作のボス、クジラマンがスタンドっぽいデザインなのが笑った) 最後にエンドロールが流れるが、そういえば私の父はエンドロールは見ない人だったなとぼんやり思い出した。

 

 

私がまだ子どもの頃、シネコンはまだ主流ではなく、座席や時間の指定も完全入れ換え制もない。なので映画館に着いたときは本編が始まっていたし、繁盛期には立ち見が当たり前だった。今はもうその映画館はなくなってしまって、どんな外観かも忘れてしまった。スクリーンから一番後ろの座席まで異様に遠く感じて、今でも映画館=巨大というイメージがある。梅田のミニシアターに始めて行ったとき、スクリーンの小ささ、座席の少なさ、天井の低さに驚愕した。父はたまにだが、ドラゴンボールとかドラえもんの映画に兄弟たちと連れていってくれた。本編はもう始まっていて途中から観るわけだが、当然最初の部分はわからない。なのでもう一度始めから見直すが、途中の観始めたシーンになると連れて帰らされてしまった。私は子どもながらに通しで観たかったが、反抗出来るわけもなかった。どんな映画を観たかも覚えてないが、残念だなという感情はあった。

 

 

長女とは初めて二人だけで映画を観たが、いずれ記憶の片隅に仕舞われるだろう。次第に細部までは思い出せなくなり、映画を観たことと、そのときの感情だけが残るのかもしれない。それすらも、そのうち別の記憶と取り違えたり、変質したりする。そこまでいけばもはや実際にあった「現実」ではなく「虚構」になってしまう。そんな風に沢山の思い出を変質されながら大人になっていく。でもそれは悪いことではない。現実は無慈悲だ。大人ならば辛い事とも向き合わなくてはならない。そんなときに胸にある「虚構」が「現実」に対抗する手段になるのではないか。もちろんネガティブな「虚構」を持ちすぎるとそれに飲み込まれてしまうかもしれないけど。まとまりがなくなったが、「虚構」という言葉を使いたかったのと、子どもにはいい思い出を残してやりたいという、それだけの話だ。

夢が見たくば金を出せ

映画「この世界の片隅で」を見た。内容はとても素晴らしかったのだか、いかんせん上映している映画館が少ないので梅田まで行かなければならなかった。自宅からは電車で1時間ほどなので決して遠いわけではないが、普段は近所の映画館に行くので遠く感じたのだ。梅田は大阪の中でも洗練されている街だ。新幹線の停車駅である新大阪駅が近くにあるし、神戸にもアクセスがいいからだろうか。難波や天王寺とは違って垢抜けた雰囲気がある。クリスマスシーズンになり、街路樹はイルミネーションに彩られて、行き交う人々もなんだか幸せそうだ。私は映画を観賞するためだけに来たので、財布には交通費くらいしか入れていなかった。チケットはWebであらかじめ払っているので不都合はなかった。しかし、ほとんどお金を持たずに梅田を歩いているとなぜか場違いな所にいる気がした。そしてあることを思い出した。

 

 

私がまだ一人暮らしをしていて、リーマンショックが落ち着いてきた頃の話だ。友人たちに遊びに行こうと誘われ、ボーリング場へ行った。私は当時お金があまりなく、それは友人たちも同じで、どうするのかと思ったら併設されているゲームセンターでただ駄弁っているだけだった。筐体の間をうろつき、他人がプレイしている様子を眺めたり、不毛な時間が過ぎていった。私は確か一万円くらい財布に入っていたが、貴重な生活費だったのでおごってやるとは言い出せなかった。そのうちに解散になった。

 

 

梅田(正確にはJR大阪駅周辺)は少し特殊な街だと思う。なんというか綺麗なものだけが集まっている。難波にもロケーションがいい場所やブランドショップはある。だが、ひとつ裏の通りに入れば、飲んだくれのおじさんや奇抜な格好の若者がいる。特に心斎橋は外国人もたくさん観光に訪れるし、飲み屋のキャッチもあるしでごった煮という感じだ。だからか金を持っていなくてもあまり気にならない。梅田にいると金を持っていないことを強く意識させられる。もし、手取り13万円しかなくて人生活が苦しい人が梅田に来たらどういう思いになるだろう。改めて厳しい現実を思い知らされて、余計に辛くなるのではないか。あまり梅田には行かないのでこれらの全ては私の勘違いかもしれない。ただ、梅田は少し残酷な街たなぁと、私は思ったのだ。