焦燥感と情熱のあいだ
上遠野浩平の小説「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター」という作品の中で、こんな描写がある。登場人物の飛鳥井仁は人の心の形を、バラの花のイメージでみることができる。彼は従姉妹の少女を「基本的に優秀だが冷めたところがあり、他人のどうでもいいような情熱を羨ましいと感じている」と評していた。正直うろ覚えなのだが、私はどきりとした記憶がある。
私は昔から何かに熱中したり、一心不乱にのめり込むことはなかった。読書だけは好きだったが、絶対的な趣味ではなかった。今はかなり読書量も減ってしまった。
まだ十代、特に中学生の頃は焦燥感があった。クラスメイトには電車が好きで遠方まで見に行ったり、ノートにマンガを描いては持ってきた者もいた。そういう同級生を見るたびに、俺にはなぜ何もないのだろう、何かしなくてはと思うほど、自分には才能も情熱もないと思い知らされてしまった。働くようになってからも変わらず、スノーボードや自転車に手を出したが、やはり長続きしない。そのうち自分はなにも楽しめない人間なのかと己を呪う気持ちになった。
今にして思うのだが、人生をおもしろ楽しく謳歌しなければ駄目だという脅迫観念に近いものにとらわれていたのかもしれない。あるいは夢を、目標を、やりがいを持たなければならないと思い込んでいたのだろう。
小説家の村上龍は、エッセイ「ラスト・ワルツ」でこんなことを言っていた。
「夢というか、人生における目標は、中学校のころに持つことができればそれに越したことはない。持たないより、持ったほうがいい。だが、わたし自身の話をすれば、夢なんかなかったし、目標もなかった。興味があるのは、女の子とか、映画とか、文学とか、そのくらいで、勉強も嫌いだった。無理して夢なんか持つ必要はないし、夢や目標がないからといってがっかりすることも不安になることもない」
これは村上龍が中学校で依頼されて講演した際、 生徒達から予め集めてもらった質問に対しての話だ。もし、中学生の私がこの話を聞いていたらきっと救われていたかもしれない。
今は結婚して子供もいるので時間的にも金銭的にも余裕がない。夢や目標なんていっている暇はないのだが、不思議と焦燥感はない。単純に大人になったからともいえるが、出来る事が限られているので、逆にやれる事はやってみようという気持ちになる。今まではそんなことしてどうするんだという事も、興味があるならとりあえずやるか、くらいのノリだ。このブログもそのひとつだ。それで私の人生がどうなるわけでもないだろうが、回り道も悪くない。
村上龍は先の講演で保護者からの「どうやったら子どもの適性を活かした仕事に就くように動機付けをすることができるでしょうか」という質問にこう答えている。
「好きなこと、自分に向いたことは、探すものではなく、出会うものなので、今は好奇心を摘まないようにして、見守っていればいいのではないでしょうか」