高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

映画 妖怪ウォッチ 現実VS虚構!

ここ何ヵ月で映画館で映画を観賞することが増えた。きっかけは「シン・ゴジラ」だ。ネット上でなんだか盛り上がっていて、観てみたのだ。実に庵野秀明監督らしい映画でとても面白かった。圧倒的な絶望感があって、1954年に初代ゴジラを観賞した人たちも同じ気持ちだったのかなと思った。クライマックスはもう少し盛り上げてもいいと思ったが、あれでいいのかもしれない。海外での受けが悪そうだったが(実際海外では苦戦している)、独特の作風が癖になって結局2回、劇場で観てしまった。

 

 

以来、月に何度か映画を観るようになった。といってもマニアになったとか、封切られた映画は全部観るとかではなく、あくまで自分が気になった作品だけだ。だから興味がなかったものでも評判が良ければ観たりするし、その逆もある。ワリと適当である。つい最近、映画でも観ようと上映中の作品を調べたのだが、めぼしいのはなくて、どうしようかと考えていたらTVCMで妖怪ウォッチの新作映画が流れていた。もちろん子ども向けなわけだが、アニメパートと実写パートがあるらしく、ただ実写化しただけではないようで興味がわいた。それでなんとなく「これでもいいかな」と言ったら、長女がそれに反応して観たいとせがまれ、見に行くはめになってしまった。

 

 

私はてっきり、アニメの世界と実写の世界があって、二つの世界がごっちゃになる話だと思っていたのだが少し違っていた。天野ケータ達がアニメパートと実写パートを切り替えながら謎を解いていく内容で、アイデア自体は物珍しいものではないが、実写パートでの妖怪CGの違和感のなさには感心した。表と裏の世界を行き来しながらクリアしていくテレビゲームを彷彿させ、妙に懐かしい気持ちになった。実写パートではアニメのような並外れた行動が出来ない。逆にアニメパートならなんでもありなので、実写世界の人間で、キーパーソンの南海カナミが自分の想いを叶えようとしたり、アニメ⇔実写の世界をしっかり生かしたストーリーで、子ども向けながらよく出来ている。不満足な部分もあるが、観て損はなかった。(今作のボス、クジラマンがスタンドっぽいデザインなのが笑った) 最後にエンドロールが流れるが、そういえば私の父はエンドロールは見ない人だったなとぼんやり思い出した。

 

 

私がまだ子どもの頃、シネコンはまだ主流ではなく、座席や時間の指定も完全入れ換え制もない。なので映画館に着いたときは本編が始まっていたし、繁盛期には立ち見が当たり前だった。今はもうその映画館はなくなってしまって、どんな外観かも忘れてしまった。スクリーンから一番後ろの座席まで異様に遠く感じて、今でも映画館=巨大というイメージがある。梅田のミニシアターに始めて行ったとき、スクリーンの小ささ、座席の少なさ、天井の低さに驚愕した。父はたまにだが、ドラゴンボールとかドラえもんの映画に兄弟たちと連れていってくれた。本編はもう始まっていて途中から観るわけだが、当然最初の部分はわからない。なのでもう一度始めから見直すが、途中の観始めたシーンになると連れて帰らされてしまった。私は子どもながらに通しで観たかったが、反抗出来るわけもなかった。どんな映画を観たかも覚えてないが、残念だなという感情はあった。

 

 

長女とは初めて二人だけで映画を観たが、いずれ記憶の片隅に仕舞われるだろう。次第に細部までは思い出せなくなり、映画を観たことと、そのときの感情だけが残るのかもしれない。それすらも、そのうち別の記憶と取り違えたり、変質したりする。そこまでいけばもはや実際にあった「現実」ではなく「虚構」になってしまう。そんな風に沢山の思い出を変質されながら大人になっていく。でもそれは悪いことではない。現実は無慈悲だ。大人ならば辛い事とも向き合わなくてはならない。そんなときに胸にある「虚構」が「現実」に対抗する手段になるのではないか。もちろんネガティブな「虚構」を持ちすぎるとそれに飲み込まれてしまうかもしれないけど。まとまりがなくなったが、「虚構」という言葉を使いたかったのと、子どもにはいい思い出を残してやりたいという、それだけの話だ。