高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

私のはじまりはズッコケ三人組だった

私が初めて「 読書している」と思った本は、ズッコケ三人組のミステリーツアーという作品だ。4才離れた兄が小学生の時に学校から借りてきたもので、私はまだ低学年だった。児童文学とはいえ、初めて読む長い話に読みきれるだろうかと思った記憶がある。

 

実家にはわりと絵本や子供むけの教材のようなものがあった。両親はあまり読み聞かせはしてくれなかったが、よく理解しないまま眺めていたのを覚えいる。そのうち自分で読むようになり、ポプラ社の児童文学や青い鳥文庫から始まって、大人向けの小説に移っていった。特に中学生の時はひどくて、授業中だろうと食事中だろうとずっと読んでいた。図書館を3館はしごして、30冊借りたこともあった。 

 

妻は読書が苦手で、どうしてそんな薄い本ですらも読み終えられないのか不思議に思う事がある。勘違いしないでほしいが、読書ができれば偉いと言いたいのではない。妻も高卒なので、学ぶための能力を身につけてほしいだけだ。ただ、大人になってから読書というスキルを身に付けるのは、もしかしたら難しいのかもしれない。

 

スノーボードを例に挙げてみよう。友達みんながスノボ好きだと、輪に加わるために必死になって出来るように努力するだろう。誰もしている者がいなければ、そもそもスノボ自体に興味すらわかないはずだ。実際私の知り合いでスノボをする人はたいてい、仲間だったり親だったり、連れていかれたことが最初だ。

 

読書習慣は保護者の影響が大きいようだ。「親と子の読書活動等に関する調査」という平成16年の少し古いデータがあった。子供とその保護者を対象にしたものだ。その調査では、保護者に読み聞かせをしてもらう、あるいは保護者が読書する習慣があると子供も読書するようになるようだ。面白いのは、保護者自身も親の習慣を受け継いでいる点だ。つまり、読書習慣がある家系はその子孫も読書ができるということだ。その逆もしかりだ。もちろん絶対にというわけではないだろうが、少なくとも相関はある。もしかしたら貧困の連鎖ともリンクしているかもしれない。

 

教育は子供にしてあげられる最大のプレゼントだと思う。そう考えて私は絵本や図鑑をなるべく買うようにしている。出来るだけ読み聞かせもしてあげたい。しかし、大人にはどうすればいいのだろう。まさか絵本を読んであげる訳にもいくまい。妻のために何か、きっかけになるような本があればいいのだが。

連れ子を愛するという事

私には二人の娘がいる。長女が今年6才になる。次女は生まれたばかりだ。長女が妻の連れ子であり、私の養子でもある。(戸籍上、続柄は婚姻ごとに定められているので、生まれた子が私からみた長女になる。妻からは私との婚姻での長女を産んだので、妻は2回長女を出産したことになる。不思議な話だ) 紛らわしいので養子を長女、生まれた子を次女とする。

さて、連れ子でググってみると、思ったほどネガティブな検索結果はない。どちらかといえば相談や法律知識が出てくる印象だ。その中でも、連れ子を愛することが出来るかどうかの質問が多い。検索する人が、連れ子関連で少なからず悩みがあるということだろう。まあ、当たり前の話だ。

長女を養子にしてから3年経つ。私がその間に愛するとは何かと考えた。そして、「自分のリソースを割き続けるられること」が"愛すること"ではないかと考えるようになった。

リソース( resource )とは資源という意味だ。自分の資源とは、時間(手間)、体力、お金だと思っている。私の現在の状況で当てはめてみる。

時間(手間)

簡単にいえば子供と関わる時間の事だ。遊び、勉強、食事に風呂など。子供の話を聞いてあげるのも、しつけるのも入る。子供の相手をする事と考えてもいいかもしれない。

体力

時間とセットになってる事が多い。一緒に遊んだり、疲れていてもなるべく相手をするなど。

お金

生活費の他、衣服、遊び、医療、進学などにかかる費用。


こうして並べると、実子を育てる場合と何らかわりはない。子育てする以上当然だ。重要なのは割き「続ける」ことだろう。短期ではなく長期、子供の年齢にもよるが、少なくとも10年以上はある。巣立つまで続けられたのなら、それはもう愛と呼んで差し支えないと思う。

私にとって、"愛"とは"好き"が昇華したものではない。あくまで独立した概念だ。もうひとついえば、何ができるか、なし得たかが重要であって、気持ちなどは後からついてくる問題なのだ。実子ですらも相性があるのだから、子供の心に配慮しつつ、丁度いい距離感を保つ。それがうまく連れ子と家族になるコツだと私は考えている。

読書ができないと何が得られないのか

私の周りでは読書が苦手な人が多い。理由としては眠たくなる、面倒くさい、そもそも理解できないなどがある。私の妻もその一人だ。一応私が読んだ本を読んでいるようだが、読み終わった事はない。なんというか、もったいないなと思う。
 

私の会社では数年前から確定拠出年金(DC)が開始された。確定拠出年金とは簡単に言えば、自分で運用する年金だ。個人型や企業型があるが、自分でファンドに投資する。当然、金融知識がなければどうすればよいのかわからない。説明会もあったが、一時間そこらの時間ではちんぷんかんぷんだった。ほとんどの人は同じ気持ちだったと思う。一年ほどほったらかしにしていたが、やはり運用せねばと思い、勉強する事にした。とりあえずネットでググりまくり、本を読み、なんとかそれなりのポートフォリオができたと思っている。

 
先日、職場でDCについてどう運用しているか少し話題になった。大抵の人はいじっていないか、あるいは少しだけ運用しているだけのようだ。私のように30年以上運用期間があればある程度リスクを取るべきだが、そういう事も知らないようだった。一人だけDCだけでなく、投資そのものを勉強している人がいた。参考書や池上彰が経済について解説している本を読んでいると言っていた。普段からよく読書をしている人だ。
 
ライフネット生命の会長兼CEOである出口治明氏は、人生は人、本、旅が人生を豊かにする3本柱だと著書の中でいっていた。まさにその通りだ。特に本は一番コストが低く、いろんな知識を吸収できる。年収に比例して読書量が多いというデータもある。
 
別に読書をしなければ生きて行けない訳ではない。わからない事だらけでもなんとかやっていけるだろう。読書は崇高なものでも何でもない。しかし、ある程度の文章を読めないという事は、わかりやすい情報しか理解出来ないという事だ。特にテレビは大げさかつ一面的にしか情報を発信しないので、より深い理解力や情報を取捨選択する能力(リテラシーという)を手にいれるのは不可能だ。その結果として、わかりやすい情報しか理解出来ない人をターゲットにした商売や商品のカモにされてしまう。本人はそれに気付かないままだ。知らぬが仏というが、本当に幸せなのだろうかと、私は思う。
 

ものづくりの空虚感

先日、会社の理念を載せた小冊子が配られた。そこには「ものづくり」とか「○○WAY」などと載っていた。私は「ものづくり」という言葉に何も訴えかけるものを感じなかった。

 
調べてみると、ものづくりは90年代後半から使われ始めたようだ。最近では、日本の技術のここがすごいとか、日本はまだまだ技術力があるという意味合いで使われているように感じる。私が知らないだけで、本当に世界に通用しうる技術がたくさんあるのだろうとは思う。
 
しかし、ものづくりという言葉に力があると本気で信じている者がいるだろうか? 私の職場で信じているヤツなど一人もいない。もし、ものづくり云々言い出そうものなら、頭のおかしいヤツと思われるだけだ。トップの人達はものづくりはこの国の~などとよく使うが、おそらく聞こえのよさ、通りのよさから使っているだけで、なんの思い入れもないのではと思っている。
 
聞こえのよさは大切だ。わかりやすいし、イメージもしやすい。ものづくりと言われれば、日本の伝統工芸や製造業を思い浮かべる。(それだけじゃないかもしれないけど) しかし、わかりやすさから使い続けるのはどうかと思う。外国の、特に中国、台湾、韓国の追い上げはかなり激しい。会社の人は価格競争では勝ち目がないと言っていた。これまでやり方ではじり貧のままだ。抜本的な転換が必要かもしれない。だが、ものづくりという言葉がそれらの問題を覆い隠し、危機感を薄れさせている気がするのは私だけだろうか?
 
 

高卒と情報

ブログタイトルにあるように私は高卒だ。私が通っていたのは工業高校だ。そこから学校斡旋で今の会社に就職した。中堅メーカーで従業員は500人を優に越える会社だ。面接は一度だけだったし、入社テストも簡単だったので、楽なものだった。

そもそも私はどこに就職しようかとか、そんな意識は無かった。成績のいい人から希望する会社の斡旋枠を選べるわけだけど、優良だとか、大手といわれる企業はだいたい決まっていた。だから、限られた選択肢から決めるだけでよかった。

もちろん、進学する人もいたし、自分が入りたい会社や業種が決まっている人もいた。だが、ほとんどの者ははっきりとしたビジョンを持っていなかったと思う。私は自分の将来について想像したりはしなかった。金を稼ぎ、自由になれるとしか考えられなかった。

高卒で就職する(斡旋)という事は、少ない情報で決めなければいけないということだ。業界分析したり、自分のやりたい事を掘り下げて考える者は少ないと思う。星の数ほどある就職先の中から選ばなければならない大学生とは圧倒的に情報の量も質も劣っている。勘違いしないで欲しいが、それが悪いといいたいのではない。選択肢が少ないという事は選びやすくもあるし、失敗に繋がる訳でもない。

ただ、終身雇用がなくなりつつあり、将来の予測が極めて難しい時代で、世の中の変化に対応できるのだろうかと思う事がある。高卒が企画の立案や営業、設計などの高度な能力が求められる業務につくことは少ないだろう。(一人であらゆる業務をこなさなければならない零細は別として) もし、会社が倒産したり所属の部署が無くなれば、当然自身の力でなんとかしなくてはならない。その時、私は誰かに求められるような何かを身につけているのだろうか? 私は何とかして、サバイバルするための能力を身につけたいと思っている。

ブログを始めた

10年たったらどんな生活をしているだろうか?
本当にこのままでやっていけるだろうか?

最近、私はよく考えるようになった。

近年では大学の進学率が50%はあるようだ。私も子を持つ親として、子供には大学にいって欲しいと思う。大抵の親は同じ気持ちだろう。

調べてみると、平成27年において、高卒で就職率は17.7%のようだ。18万9千人が就職していることになる。一方大学の進学率は56.4%である。大学に行くことが正解だとは思わないが、大卒であるということが当たり前になりつつあるのかもしれない。



私は今、工場の現場で働いている。仕事もやりがいはある。働いている人達もいい人ばかりだ。しかし、重要な価値のある情報や、あるいはつぶしのきく知識は得られる事はない。10年20年後、果たしてどうなるか私にはわからない。



このブログは私にとっての備忘録である。日々つらつらと考えている事をまとめて、形にする事で何か自分自身に変化があればいいと思う。



もうひとつ、ブログを始めた理由がある。それは、私の家庭が少しだけ人より違っている。もし、同じ家庭を持つ人の参考に少しでもなれば嬉しい。