高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

血の繋がりは大切なのか

先日、会社の人と話をしているとき、こんなことを聞かれた。

 

「やっぱり、自分と血が繋がっている子の方がかわいいよな?」

 

別に悪意があってそう聞いた訳ではないだろう。ただの一般論だ。私はあんまりそんな風に思わないと答えた。

 

私は妻が妊娠したとわかってから、分け隔てなく愛情を注げるだろうかと考えた。もちろん、長女を養子にするときに覚悟はしていた。実の子ですらも差をつけたりするので、私の場合はなおさらあってもおかしくない。私は不安だった。

 

父親は子供が産まれないと父としての実感がわかないというが、私も同じだった。ただ、我が子が育っているというより、自分の遺伝子をもった生物が大きくなっていると感じた。変な話だが、自分の分身とは思えなかったのだ。妻にそれをいうとわりと怒られもした。あんたの子供だよ、と。

 

産まれてからもそれは変わらなかった。顔は私と似ていると思う。しかし、親と子という関係よりは、私は私、子供は子供といった独立した関係だと意識がある。私の遺伝子を持っているだけだと。

 

人によっては大切な事だろうが、私には思ったほど価値はない。自分の遺伝子が後世に残ろうとも、私はいずれ死んでしまうし、死んだらそれで終わりだ。お金が降って来るわけでもない。私はどこまでも自分本位なんだなとあきれるくらいだ。でも、それくらいが丁度いいのかもしれない。少なくとも子供には不自由はさせてないわけだし。

 

私の好きな小説「終戦のローレライ」では、絹見艦長が潜水艦と共に沈むとき、子を成しておくのだったと後悔していた。私も晩年になって、子を作ってよかったと思うのだろうか。生物としてはそれが正しいのだろう。私はオスとして間違っているのかもしれないが、今はそれでいい。血縁で悩み過ぎたり、虐待なんかするよりかずっといいと実感している。

恨みはないが死んでくれたら楽だ

次女が産まれて2ヶ月経つ。長女は五歳にしてはよくお手伝いをしてくれている。空回りする時もあるが、かわいらしいものだ。長女は妻の連れ子で私と養子縁組したが、今のところ血の繋がりを気にしたことはない。案外どうとでもなるものだと思う。

 

長女が私の子供ではない以上、当然実の父がいる訳だが、一度も連絡が来たことがない。妻の再婚を知っていると思うが、どうでもいいのだろうか。

 

妻が離婚した理由は、前の旦那(長女の父)がギャンブルに金をつぎ込んだからだ。仕事もろくに続かなかったようだ。借金のし過ぎで金を借りられなくなったので、妻にも借金させたりした。どうにもならなくなったので、妻は離婚を決断したわけだ。

 

よくあるダメ人間だが、それでも長女の父親には違いない。妻は絶対に会わせたくないと言っている。気持ちはわかるが、面会権は親と子の権利なので、連れ去りや虐待等の理由がない限りは拒否することはできない。もちろん、私としてはわ会わせたいとは思わない。そもそも自ら家庭をめちゃくちゃにした男だ。父親を名乗る資格はないだろう。

 

今は何も接触して来ないのでいいのだか、この先はどうだろうか。どこかのタイミングで会いたいと言い出すかもしれない。子供もそれを望むかもしれない。しかし、継父としては、死んでいてくれたらいい。人間性が変わっていないのなら、長女にとって会うメリットよりもデメリットが大きいと思う。私には再会を止められないが、死んでしまえばそれで終わりだ。血の繋がりは想像以上に影響力がある。どんなに最悪な親でも、その影響力から逃れるのは難しい。長女にはそんな男のために苦しんで欲しくはない。借金で首が回らなくなって、自殺してくれたらいいのにと、そう思ってしまうのだ

私はコウ・ウラキでイメージした

もう何年も前になるが、友人からFate/Zeroの書籍を貸してもらったことがある。TYPE-MOONのPCゲーム「Fate/stay night」のスピンオフ作品で、最初は同人誌として販売された。(書店では売られていなかった) 友人はどこからか同人誌版を入手し、とても面白いからと私に貸してくれたのだ。私はそもそも、大元のstay  nightをプレイしたことがなかったが、前日譚にあたるから知らなくても大丈夫ということで、借りさせてもらった。緻密な設定と濃厚な話にすっかり惹き付けられた私は、かなり長い話だったが二晩で読み終えてしまった。その後放映されたアニメ版もすごいなぁと思いながら鑑賞した。作り手の熱意が伝わる作品は、何かしらの響くものがある

 

私はFateシリーズは全然知らなかったのだが、空の境界はなぜか持っていた。空の境界は、Fateシリーズのシナリオライター奈須きのこによる同じ世界観を持つ小説だ。こちらも結構なボリュームがあって読み応えがあった。先の友人にお礼として貸してみようとしたが、断られてしまった。理由を聞くとキャラクターのイメージが出来ないからと言われた。

 

Fate/Zeroの同人誌版は、表紙はもちろん、口絵にはキャラクター紹介や場面のイラストが描かれている。サーバントにいたってはパラメーターや宝具の解説まであった。それが4冊分である。一方空の境界は表紙こそは主人公が描かれているが、挿し絵がほとんどない。各章に申し訳ない程度にイラストがあるだけで、それすらも満足な情報量ではない。キャラクターをイメージしろといれても、難しいかもしれない。

 

私は中学生の頃、銀河英雄伝説を読んだ。説明不要の田中芳樹による大作SF小説だ。私が読んだのはトクマノベルズ版で、登場人物が600人以上出てくのにキャラクターイラストが皆無だったので、誰が誰だか混乱した。(私はその時、アニメ版があることを知らなかった) 仕方がないので、当時はまっていたスーパーロボット大戦というゲームから適当なキャラを当てはめて読んでいた。主人公の一人であるヤン・ウェンリーはアジア系だったので、同じアジア系のコウ・ウラキ(機動戦士ガンダム0083の主人公)を当てはめたのだ。後に全然似てもに似つかなかったのを知ったが、私はよく別の作品のキャラクターをイメージする読み方をしていたのだった。

 

妻は相変わらず読書が苦手だ。文章が頭に入ってこないらしい。おそらくだが、 書かれている言葉を、頭の中にイメージ出来ないのだと思う。おまけに語彙が乏しいので、言葉をひとつひとつ理解しながら読み進めなければならない。だから疲れて読みきれないのだろう。映像化済みの作品ならなんとかなるのだろうか。

 

私のはじまりはズッコケ三人組だった

私が初めて「 読書している」と思った本は、ズッコケ三人組のミステリーツアーという作品だ。4才離れた兄が小学生の時に学校から借りてきたもので、私はまだ低学年だった。児童文学とはいえ、初めて読む長い話に読みきれるだろうかと思った記憶がある。

 

実家にはわりと絵本や子供むけの教材のようなものがあった。両親はあまり読み聞かせはしてくれなかったが、よく理解しないまま眺めていたのを覚えいる。そのうち自分で読むようになり、ポプラ社の児童文学や青い鳥文庫から始まって、大人向けの小説に移っていった。特に中学生の時はひどくて、授業中だろうと食事中だろうとずっと読んでいた。図書館を3館はしごして、30冊借りたこともあった。 

 

妻は読書が苦手で、どうしてそんな薄い本ですらも読み終えられないのか不思議に思う事がある。勘違いしないでほしいが、読書ができれば偉いと言いたいのではない。妻も高卒なので、学ぶための能力を身につけてほしいだけだ。ただ、大人になってから読書というスキルを身に付けるのは、もしかしたら難しいのかもしれない。

 

スノーボードを例に挙げてみよう。友達みんながスノボ好きだと、輪に加わるために必死になって出来るように努力するだろう。誰もしている者がいなければ、そもそもスノボ自体に興味すらわかないはずだ。実際私の知り合いでスノボをする人はたいてい、仲間だったり親だったり、連れていかれたことが最初だ。

 

読書習慣は保護者の影響が大きいようだ。「親と子の読書活動等に関する調査」という平成16年の少し古いデータがあった。子供とその保護者を対象にしたものだ。その調査では、保護者に読み聞かせをしてもらう、あるいは保護者が読書する習慣があると子供も読書するようになるようだ。面白いのは、保護者自身も親の習慣を受け継いでいる点だ。つまり、読書習慣がある家系はその子孫も読書ができるということだ。その逆もしかりだ。もちろん絶対にというわけではないだろうが、少なくとも相関はある。もしかしたら貧困の連鎖ともリンクしているかもしれない。

 

教育は子供にしてあげられる最大のプレゼントだと思う。そう考えて私は絵本や図鑑をなるべく買うようにしている。出来るだけ読み聞かせもしてあげたい。しかし、大人にはどうすればいいのだろう。まさか絵本を読んであげる訳にもいくまい。妻のために何か、きっかけになるような本があればいいのだが。

連れ子を愛するという事

私には二人の娘がいる。長女が今年6才になる。次女は生まれたばかりだ。長女が妻の連れ子であり、私の養子でもある。(戸籍上、続柄は婚姻ごとに定められているので、生まれた子が私からみた長女になる。妻からは私との婚姻での長女を産んだので、妻は2回長女を出産したことになる。不思議な話だ) 紛らわしいので養子を長女、生まれた子を次女とする。

さて、連れ子でググってみると、思ったほどネガティブな検索結果はない。どちらかといえば相談や法律知識が出てくる印象だ。その中でも、連れ子を愛することが出来るかどうかの質問が多い。検索する人が、連れ子関連で少なからず悩みがあるということだろう。まあ、当たり前の話だ。

長女を養子にしてから3年経つ。私がその間に愛するとは何かと考えた。そして、「自分のリソースを割き続けるられること」が"愛すること"ではないかと考えるようになった。

リソース( resource )とは資源という意味だ。自分の資源とは、時間(手間)、体力、お金だと思っている。私の現在の状況で当てはめてみる。

時間(手間)

簡単にいえば子供と関わる時間の事だ。遊び、勉強、食事に風呂など。子供の話を聞いてあげるのも、しつけるのも入る。子供の相手をする事と考えてもいいかもしれない。

体力

時間とセットになってる事が多い。一緒に遊んだり、疲れていてもなるべく相手をするなど。

お金

生活費の他、衣服、遊び、医療、進学などにかかる費用。


こうして並べると、実子を育てる場合と何らかわりはない。子育てする以上当然だ。重要なのは割き「続ける」ことだろう。短期ではなく長期、子供の年齢にもよるが、少なくとも10年以上はある。巣立つまで続けられたのなら、それはもう愛と呼んで差し支えないと思う。

私にとって、"愛"とは"好き"が昇華したものではない。あくまで独立した概念だ。もうひとついえば、何ができるか、なし得たかが重要であって、気持ちなどは後からついてくる問題なのだ。実子ですらも相性があるのだから、子供の心に配慮しつつ、丁度いい距離感を保つ。それがうまく連れ子と家族になるコツだと私は考えている。

読書ができないと何が得られないのか

私の周りでは読書が苦手な人が多い。理由としては眠たくなる、面倒くさい、そもそも理解できないなどがある。私の妻もその一人だ。一応私が読んだ本を読んでいるようだが、読み終わった事はない。なんというか、もったいないなと思う。
 

私の会社では数年前から確定拠出年金(DC)が開始された。確定拠出年金とは簡単に言えば、自分で運用する年金だ。個人型や企業型があるが、自分でファンドに投資する。当然、金融知識がなければどうすればよいのかわからない。説明会もあったが、一時間そこらの時間ではちんぷんかんぷんだった。ほとんどの人は同じ気持ちだったと思う。一年ほどほったらかしにしていたが、やはり運用せねばと思い、勉強する事にした。とりあえずネットでググりまくり、本を読み、なんとかそれなりのポートフォリオができたと思っている。

 
先日、職場でDCについてどう運用しているか少し話題になった。大抵の人はいじっていないか、あるいは少しだけ運用しているだけのようだ。私のように30年以上運用期間があればある程度リスクを取るべきだが、そういう事も知らないようだった。一人だけDCだけでなく、投資そのものを勉強している人がいた。参考書や池上彰が経済について解説している本を読んでいると言っていた。普段からよく読書をしている人だ。
 
ライフネット生命の会長兼CEOである出口治明氏は、人生は人、本、旅が人生を豊かにする3本柱だと著書の中でいっていた。まさにその通りだ。特に本は一番コストが低く、いろんな知識を吸収できる。年収に比例して読書量が多いというデータもある。
 
別に読書をしなければ生きて行けない訳ではない。わからない事だらけでもなんとかやっていけるだろう。読書は崇高なものでも何でもない。しかし、ある程度の文章を読めないという事は、わかりやすい情報しか理解出来ないという事だ。特にテレビは大げさかつ一面的にしか情報を発信しないので、より深い理解力や情報を取捨選択する能力(リテラシーという)を手にいれるのは不可能だ。その結果として、わかりやすい情報しか理解出来ない人をターゲットにした商売や商品のカモにされてしまう。本人はそれに気付かないままだ。知らぬが仏というが、本当に幸せなのだろうかと、私は思う。
 

ものづくりの空虚感

先日、会社の理念を載せた小冊子が配られた。そこには「ものづくり」とか「○○WAY」などと載っていた。私は「ものづくり」という言葉に何も訴えかけるものを感じなかった。

 
調べてみると、ものづくりは90年代後半から使われ始めたようだ。最近では、日本の技術のここがすごいとか、日本はまだまだ技術力があるという意味合いで使われているように感じる。私が知らないだけで、本当に世界に通用しうる技術がたくさんあるのだろうとは思う。
 
しかし、ものづくりという言葉に力があると本気で信じている者がいるだろうか? 私の職場で信じているヤツなど一人もいない。もし、ものづくり云々言い出そうものなら、頭のおかしいヤツと思われるだけだ。トップの人達はものづくりはこの国の~などとよく使うが、おそらく聞こえのよさ、通りのよさから使っているだけで、なんの思い入れもないのではと思っている。
 
聞こえのよさは大切だ。わかりやすいし、イメージもしやすい。ものづくりと言われれば、日本の伝統工芸や製造業を思い浮かべる。(それだけじゃないかもしれないけど) しかし、わかりやすさから使い続けるのはどうかと思う。外国の、特に中国、台湾、韓国の追い上げはかなり激しい。会社の人は価格競争では勝ち目がないと言っていた。これまでやり方ではじり貧のままだ。抜本的な転換が必要かもしれない。だが、ものづくりという言葉がそれらの問題を覆い隠し、危機感を薄れさせている気がするのは私だけだろうか?