高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

1988年生まれ 大阪在住 二児の父

バンダイチャンネルに救われた話

先日、アニメ配信サービス「バンダイチャンネル」に入会した。本当はdアニメストアに入会したかった。あいにくパソコンは壊れており、Kindleで視聴できるバンダイチャンネルにしたのだ。(スマホでは画面が小さすぎて嫌だ) 前から見たかった「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」と、今話題の「けものフレンズ」を観賞しているが、とても面白い。息をつかせぬ展開のガンダムは見ていて胸が苦しくなるし、けものフレンズはゆるさ全開の中に膨大な情報が仕込まれており、考察を読むだけでもかなり楽しい。私はやはり「アニメ観賞」がとても好きなんだなと思った。

 

子どもの頃からアニメが好きで、戦隊物や仮面ライダーより、勇者シリーズなどのアニメを好んだ。理由はわからないが、そういう性格だった。中学生あたりから深夜にアニメが放映していると知った。自分の部屋を持つ友人が教えてくれたのだ。確か「ちょびっツ」の話だった。私も見たかったが、その環境がなかった。私の実家は2LDKのマンションで、両親と私を含めた四人兄弟が住んでいて、自分の部屋などない。当然自分のテレビもなく、唯一の録画機器はリビングにあるVHSだ。しかし、父はリビングに布団を敷いて寝起きしており、とても録画出来そうになかった。その間にも興味深そうなアニメが次々と放映されて歯痒い思いだった。

 

私が学生時代に放映されたアニメのタイトルを思い出してみた。「妄想代理人」「サムライチャンプルー」「蒼穹のファフナー」「宇宙のステルヴィア」「創聖のアクエリオン」「げんしけん」「ラーゼフォン」……。ロボットアニメが多いのは当時スパロボにはまっていて印象的だからだ。私はずっと置いてけぼりにされた気分だった。

 

そんな訳で、二十歳で一人暮らしを始めた私は来る日も来る日もアニメばかり見ていた。帰宅して家事をすませ、食事の用意を終えたら、後はもう録画したアニメを見ているだけで十分だ。私の住んでいた物件では、NHK総合Eテレ、読売、関テレ、ABC 、毎日、テレビ大阪サンテレビ京都テレビが受信でき、毎日何かしらのアニメが見れた。一話で視聴を止めた作品もあれば、これはすごい、全部見るまで死ねないと思える作品もあった。嫌な事、辛い事もたくさんあったが、アニメを見ているとそれらを忘れられた。私にとっての癒しだったのだ。

 

私はアニメに救われてきたが、一方でアニメ観賞をしている事を知られたくはなかった。知られる事が恥ずかしいと今でも思っている。別に同族嫌悪はしていないし、周りの人でも(それこそおじさんでも)アニメ好きを公言している人もいるので気にする必要はないのだけど。それに私は他人と何かを共有して楽しむのが苦手だ。それはたとえ妻だったとしてもだ。妻はアニメには嫌悪感を持っていない。むしろ好きなくらいで、仕事が休みの日や産休中にはたまにレンタルして見ている。なんせおっぱいが出まくる作品、「聖痕のクェイサー」も普通に見れるほどだ。しかし、私はアニメを見るのを止めてしまった。

 

アニメを見なくなってから、私はよくイライラするようになった。代わりに本を読んだり映画館に行くようにしたが、それでも見たい気持ちは変わらなかった。子どもがいる大人がアニメばかり見てどうするんだと思って我慢したが、その間にもたくさんのアニメが放送されていった。心引かれる作品がある度に見れないことに落胆し、それもストレスになった。自分で決めたことではあるのだが。

 

そうして3年が過ぎたある日、Kindleバンダイチャンネルが視聴できると知った。丁度育児休暇中の妻が「マクロスΔ」をレンタルして見ており、わざわざ借りるよりこっちの方がいいよと勧めた。というより妻をダシにしただけだ。確実にバレてはいるが。Kindleならイヤフォンをつければ一人で視聴出来るし、それなりに画面が大きいので快適だ。以前ほどではないが、再びアニメを見始めた。

 

またアニメを見るようになってから私に少しだけ変化があった。ストレスを感じても受け流せるというか、心穏やかになったのだ。これには結構驚いた。私はずっと「自分の好きなことは何か?」と考えてきたが、もしかしたらこれが答えかもしれない。そう思うと少し嬉しかった。

 

「見たくてもみれない」のと「見ようと思えばいつでも見れる」のでは気持ちの持ちようがまるで違う。裁量権がある方がストレスが溜まりにくいと聞いた事があるが、つまりそういうことなのだろう。バンダイチャンネルはまさに私にとっての救いになった。子どもが二人いては使える時間は限られるが、それでも私はアニメを見続ける。この先、無数の困難が待ち構えているが、星の数ほどあるアニメが、私の背中を支えてくれている限り、頑張れる気がするのだ。

現場から離れるほど「ものづくり」が跋扈する

偉い人がこんなことを言う。「厳しい情勢ではありますがわが社にはすごい技術があるのでなんとか頑張りましょう」なんてことだ。私はそのたびに思う。いったいどの技術のことで、それは他社とはどれくらい差別化できていて、いくらの利益を出しているものなのか。私にはまるで思いあたるふしがない。

 

私はあまりテレビは見ないが、なんとなく日本や日本人を称賛する番組が増えたように思う。多分そういうものが世間では求められているのだろう。この国が自身をなくしている表れかもしれない。実際にネット上ではその手のサイトを製作するための人材を募集しているようだ。

「世界が絶賛する日本!」みたいな自国礼賛サイトはこうやって作られていた - エストニア共和国より愛をこめて

 

私は製造業に従事しているが、現場でものづくりなんて誰も言わない。日々の業務をこなすだけだ。ノルマに追われ、納期に追われ、予算を絞られ、偉い人から無茶を言われるのである。俺たちにはすごい技術があるなんて誰も思ってない。いたらただのアホだ。そもそも自分達が作っている物が、最終的に何に使われるかもわからない場合もある。図面の指示に従っているだけだ。

 

「ものづくり大国」とか「技術立国」なんていうが、そんなのはとっくに終わっている。過去の栄光にすがり付いているだけだ。確かにGDPはいまだ世界3位だか、一人あたりのGDPは26位だか27位だそうだ。単純に人口が多いからなんとか保っているが、生産性を向上出来なければ、悲惨な未来が待っている。詳しくはデービッド・アトキンソン氏の「新・所得倍増論」を呼んで欲しいが、日本は皆が思っているほどすごい国ではない事がよくわかる。

 

もう一度言うが、実際に生産に従事している人間はものづくりなんて言わない。言うのは偉い人か、現場と無関係な人間だけだ。いや、現場を知らないからこそ言えるのかもしれない。製造業にしろサービス業にしろ、「技術」や「おもてなし」なんてものはそうしなければクビになるからしているだけで、本当はどうでもいいと思っているのではないだろうか。

 

私はもうわかりやすい言葉で誤魔化すのはやめて、現実を直視するべきだと考えている。高齢化も少子化もかなりヤバイところまできているし、長時間労働同一労働同一賃金など仕事に対する意識を変えなければならないだろう。昔と同じやり方ではきっと解決出来ない。新しい価値観が必要だがそれが芽生える気配はまだない。「ものづくり」なんて言っている限りこの国に未来はない。

家庭不適合者の私と家族が欲しかった妻

結婚してもう3年経とうとしている。様々な出来事があったが、いまだに家庭というものに慣れない。勘違いしないで欲しいが、離婚したいとか嫌いになったとかそういう訳ではない。単純に私の気質の問題だ。

 

私の実家は今はもうオンボロになってしまったマンションだ。2LDKで家族6人が暮らしていた。各部屋は襖で仕切られているだけで、私には兄と弟、妹がいるが子ども部屋はなく、家を出るまで兄と弟とひとつの部屋で寝ていた。ちなみに妹と母が同じ部屋で、父はリビングに布団を敷いていた。プライバシーのプの字もなく、非常に苦痛だった。そのせいなのか、私は何かしているのを人に見られるのが苦手だ。本を読む、勉強をする、個人的な買い物、自分ですることに関しては、見られているとストレスを感じるのだ。それは結婚した今でも変わらない。

 

私は4年一人暮らしをしたが、思えば人生で一番充実していた。時間も金も体力も、全て自分のために使用できた。なんというか、自分自身に対する裁量権がとても大きいといえばいいだろうか。例えば食事にしても、料理を作る時もあるし、外食だったり食べなかったりした。どれを選択しても誰にも文句を言われない。ある時には食事を作るだけ作って食べずに寝たこともあった。ストレスが溜まったら(溜まらなくてもだが)、録画した深夜アニメをみたり、うまいラーメン屋に行ったりして発散できた。私は子どもの頃からよく熱を出していたが、ストレスが溜まらないせいか、ほとんど病気にならなかった。

 

妻は詳しくは説明出来ないので割愛するが、血縁者がいない。なので、家族というものに憧れがあった。前夫がどうしようもないろくでなしだったが、なかなか離婚出来なかったのはそれが理由だ。また、かなりの寂しがりやで、同じ家に暮らしているのに、私が別の部屋で作業をしていると、寂しくなって寄ってきたりする。酷い時には同じ部屋でもおきる。私とは正反対の性格だ。ひとりが好きな私とひとりが苦手な妻。なかなかままならないものだ。

 

そもそもこんな性格の私が何故結婚したのだろうとたまに自問する。単純にタイミングがよかったとか、適齢期だったからとか、もちろん好きだからというのもある。ただ、何か確定的な出来事があった訳ではない。いくつかの要素が重なって、まぁいいかなみたいな気持ちになったのは覚えている。結婚するときは案外そんなもので、むしろ劇的な展開があって結婚したという人の方が少ないのではないかと思う。

 

ひとつの家族になる以上、摩擦は避けて通れない。家族をうまく運営するためにはすり合わせが必要だ。妻に折れてもらったり子どもに我慢してもらう時もあるだろう。逆に私が彼女達のためにするべきこともたくさんある。家族とはとても面倒だが、それが醍醐味になっている側面もある。一人暮らしの方がよほど楽しく楽ではあるが、結婚した以上妻と子どもたちを幸せにしてあげたい。

 

最後に最近見かけた、まさにその通りだなと思ったツイートを紹介しておく。ストレスは溜め込むものじゃない。

私と娘とポッピンQ

娘にせがまれて映画「ポッピンQ」を見に行った。東映アニメーション60周年記念のプロジェクトとして製作されたアニメーション映画であり、随分と気合いが入っているようだ。

劇場アニメ「ポッピンQ」 | 公式サイト

一応ストーリーをWikipediaから引用しておこう。

 

通過点でしかないと思っていた卒業式を目前に控え、中学3年生の伊純は前に進めずにいた。そんな時、海で美しく輝く「時のカケラ」を拾った伊純は、不思議な世界「時の谷」へと迷い込む。そこで、同い年の蒼、小夏、あさひ、そして「時の谷」に住み「世界の時間」の運営を司るポッピン族と出合う。「時の谷」と「世界の時間」が今まさに崩壊の危機に瀕していた。

危機を脱するには、伊純たちの持つ「時のカケラ」を集め、心技体を一致させた「ダンス」を踊るしかないという。迫りくる危機と、ポッピン族の厳しいダンス指導に戸惑う伊純たち。そんな中、ダンス経験者の沙紀が現れるが……。

「時のカケラ」に導かれた5人はダンスで世界を救えるのか?そして、無事に卒業できるのか?

 

プリキュアにSFを混ぜこんだ様な作品で、ダンスシーンはプリキュアのエンディングでノウハウがあるのか、よくできていた。しかし、簡潔にいってどの層に向けたのか、何がしたかったのかよくわからない作品だった。あれこれ詰め込み過ぎで消化不良といってもいい。もっとシンプルにすべきだった。同じように思った方もいる。

映画『ポッピンQ』感想 この映画を女児向けと見るか、大友向けと見るか難しいところだ…… - 物語る亀

【ネタバレあり】ポッピンQの残念さについて考えてみた(辛口感想・レビュー) - 立て直せ、人生。

 

 

 子ども向けというには世界の時間や同位体の設定などわかりにくいし、大人向けにしてはダンスで世界を救うなんてお手軽過ぎる。決してダンスが駄目な訳ではないが、ダンスでなければならない理由が薄かった。途中でバトルシーンもあるが、はたして必要があったのかと思う。素直にダンスだけにして、キャラクターがぶつかり合い、葛藤を乗りこえてダンスを完成させる方がよかった。沙紀という一人だけ元からダンスが得意なキャラクターがいるが、ある理由で心を閉ざしている。5人でダンスを完成されなければならないため、彼女のトラウマを解消し、心を開かせなければならないが、その過程があまりに都合よすぎるのではと思えた。沙紀だけでなく他のキャラクターについても同様で、悩みや問題を克服する描写が純伊純以外ほぼない。そもそも世界を救うはずのダンスも、練習シーンはあるにしても、いつの間にそんなに出来るようになったんだよと思ってしまった。沙紀を含めた5人揃って練習したシーンはなく、ラストシーンで沙紀が「私に合わせて」の掛け声だけで踊れてしまっているのだ。あれこれやりたいのなら、テレビシリーズで丁寧に作って欲しかった。この作品はその方が合っていると思う。

 

プリキュアは毎年新シリーズが発表され、それに合わせて映画も製作される。映画版プリキュアはテレビシリーズを土台にして製作されるので、世界観やプリキュアになった理由等はわざわざ説明されない。しかし、ポッピンQは完全新作である。2時間という枠がある以上、詰め込められる内容には限界がある。

 

エンドロールの後、少しだけその後の映像が流れたが、続編を期待させる内容だった。しかし、はっきりとしたアナウンスがなかったので、実際のところどうかはわからない。ひとつひとつの要素が悪くなかったので、これからの作品展開に期待したいところだ。

 

最後に娘の感想だが、とっても面白かったと答えている。子ども向けとしてはこれでよかったのかもしれない。

衝動を待ち続けている

昨年の暮れにある音楽番組がやっていた。音楽番組といってもプロのミュージシャンが出演するのではなく、一般の方が歌のうまさを競っていた。ウッチャンナンチャンがMCを務めていたが、久しぶりに揃っているのが印象的だった。内容も結構本格的で、当然ながら皆とても歌が上手い。今度デビューする新人だと言われても全く違和感がないくらいだ。どちらかといえば若い方が多かったが、小学生から現役の医者まで、多様な人が出ていた。

 

きっと私にはわからないくらい猛練習したはずだ。優勝したのは女子中学生でミュージカルの曲を歌った。感情的に歌い上げてとても素人とは思えなかった。これくらい歌が上手ければきっと楽しいだろうと思った。彼女だけでなく、予選敗退した人々も歌が好きなのだろう。それほどの熱意は私にはない。

 

いったい、そういう情熱はどこから来るのだろう。何かのきっかけがあったのか、それとも気づいたらのめり込んでいたのか? 頭で考えるようなことではないかもしれない。

 

クリス・ギレボー著、本田直之監訳の「一万円起業」では、自分の得意なこと、好きなことをビジネスにしようとある。本著に限らず、同じように説く人は多い。その考え方は圧倒的に正しい。やはり夢中になって取り組める方がいいに決まっている。しかし、情熱を持たない、持てなかった私にはまるで夢の様な話だ。

 

そもそもそういったものにどこで出合うのだろうと考えているとこんな記事を見かけた。

 「やりたいことがない人」がなぜ、企業にとって魅力的な人材ではないのかを説明する。 | Books&Apps

 

この記事では「野心」という言葉が使われているが、私が求めているものに近い。野心についてこう解説している。

 

だが、冷たいことを言うようだがそれは単なる勉強不足、経験不足である。なぜなら、野心は、高度な勉強や多様な体験から生まれるからだ。

 

先人の残した研究や知見を学び、実際にそれを現場で見て、触って確かめ、自分自身の試みを適用してフィードバックを得る。そして、その中から、「野心」が生まれる。

 

私はまだ、心捕まれる様な何かに出会っていない。つまり今の環境では見つけられないということだ。出会うためには転職したり勉強する必要がある。単純にすむ場所を変えてもいいかもしれない。いずれにせよ、色々と試すしかない。私はいつか来るかもしれない衝動を待ち続けている。

実子も養子もかかる労力は変わらない

次女が産まれて半年たった。正月早々から私と次女がアデノウィルスにかかってしまって大変だった。妻は看病でくたくたで、長女をどこにも連れていけなかったので申し訳なく思っている。その次女なのだが、今はもうほぼ治っているが、アデノウィルスのせいで40度まで熱があがるし、特に鼻づまりが酷かった。赤ちゃんは口で呼吸すると咳き込んでしまい、うまく眠れないどころか飲んだミルクを吐いてしまい、見るからに痛ましい。抱っこしないと落ち着かなかったが、私も寝込んでいたのでずっと妻が付きっきりで面倒をみていた。ほとんど睡眠がとれないのでふらふらだったが、妻はよく頑張っていた。本当に感謝している。

 

私はごくたまにだが、Googleで「連れ子」とか「養子」で検索する。特に深い意味はないが、世間的にどう思っているのだろうと気になるのだ。やはりというか、連れ子を愛せるだろうかとか、あるいは連れ子と上手く関係を築く方法、法律相談なんかもある。みんな悩んでいるんだなぁなんて思う。連れ子結婚といっても条件によって様々なので一概にはくくれないが、多分私は運がいい方なのだろう。前にもこんな事を書いた。

連れ子を養子にした私が(今のところ)うまくいっているわけ - 高卒ブルーカラーの考えるあれこれ

 

 

次女はこれから色々な病気にかかったり怪我をしたりする。(無論長女もだが) その度にてんやわんやしながらなんとか乗り越えていく。子育ては面倒臭く、その見返りもあるかわからない。いや、見返りなんて期待してはいけないのかもしれない。なら親のすべきことは何だろうか。そもそも親とは何だ? 子どもができたら親なのか? なら長女の実父はいままで何もしてこないが、それでも親と呼べるのか? そんな事をぼんやり考える。結局、健康だったらそれでいいやみたいな結論に達する。少なくとも実子だろうと養子だろうと同じ人間なのだからかかる手間は変わらない。正確には子どもの個性や相性で大きく変わってくる。でもそれは実子でも一緒なはずで、血が繋がっているのにとても仲が悪いなんてよくある話だ。

 

今、私の目の前で妻と、長女と、次女の三人が静かに眠っている(現在23時) 子どもたちの顔を見比べても、姉妹なだけあって少し似ているなと思うくらいだ。実子の方が可愛いと感じる人もいるのだろうが、私にはあんまりない。だいたい子どもだって欲しいと思わなかった。自分さえ良ければそれでいいはずだったが、なんの因果か二人も子どもがいる。血の繋がりは、ただ遺伝子情報を持っているだけで、それだけの事と考えている。それよりも子どもたちに何を教え、伝えていくかの方がよほど大切だ。この考え方は、学生時代にやった「メタルギアソリッド2」の影響が大きい。いわゆる「Meme」というやつだ。ミームとは人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり、例えば習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる様々な情報を意味する科学用語である(wikipedia調べ ) 私は影響を受けやすい方なのだが、ミームは私の奥底に根付いており、それが子育ての根幹になっている。だから血の繋がりに、大して興味がないのだろう。けれど、この考え方は連れ子結婚にはアドバンテージがあるというか、適合していると思っている。まぁ妻と子どもたちが幸せならそれで十分だ。

読書嫌いに読書スキルを習得させることができるか

こたつでデービッド・アトキンソン氏の「新・所得倍増論」を読んでいたら妻に「それの何が面白いの」と尋ねられた。私は面白さだけで読んでいる訳じゃないと答たが、ちょっと気になって読んでみたいのかと聞いた。てっきり、そんなの難しいからいらないと言われるかと思ったら「読んでみたいけど理解できないし、眠くなる」と言った。普段なら、頑張って読めばいいのにと思うだけだ。しかし、もしかしたら「読む気がない」のではなく「読む能力」が育っていないのかもしれない。

 

 

 私は「新・所得倍増論」と一緒にルポライターの鈴木大介氏の「脳が壊れた」を買った。鈴木氏は「最貧困シングルマザー」や「ギャングースファイル 家のない少年たち」など、貧困や犯罪に染まる社会の最下層の人々を主に取材している。この「脳が壊れた」は、四十一歳で右脳に脳梗塞を発症し、高次脳機能障害が残った鈴木氏本人の闘病記だ。高次脳機能障害について鈴木氏はこう解説している。

 

 高次脳機能障害とは、脳梗塞=脳の血管に血の塊が詰まって脳細胞が損傷することで起きる障害の一群で、手足などの身体の麻痺とは別に様々な問題が起きてくることを言います。

例えば、記憶障害・注意障害・遂行機能障害認知障害等々。こうした一連の神経心理学的障害は、脳卒中(脳梗塞脳出血を含めて言う)のみならず、事故による脳の外傷などでも残る後遺症なのだそうです。

 

鈴木大介 「脳が壊れた」まえがきより 

 

 

鈴木氏に残った後遺症に「半側空間無視」というものがある。鈴木氏は視界の左側の世界を「見えていても無視」したり、左側への注意力を持続するのが難しくなってしまった。なので左側から右側に物体が移動するとまるで突然視界に表れたように見えるのだ。決して視力がなくなったのではない。いわばアハ体験や間違い探しのように、見えているのに認識していない状態になってしまっている。さらに左側への認識が困難になったことで、右方向に対する注意力が過剰になってしまった。結果的に、一度注目してしまうと、そこを「じと~」っと見続けてしまうようになり、まるで喧嘩を売っているように見えるのである。他にも体がうまくコントロール出来ない、本を読むと神経が疲れてすぐに睡魔が襲ってくる、レジで財布からうまく小銭が出せない、感情が爆発する等、日常生活に支障をきたしている。しかし、鈴木氏はこれらの後遺症は、彼が取材してきた人々にも見られたと指摘する。

 

 僕はこれまでの取材活動の中で、「環境的発達不全」と言えるような少年少女らに多く会ってきた。たとえば、過度のネグレクトや虐待家庭から逃亡して未成年で自立生活を送る売春少女、窃盗少年らの中には、フォークやスプーンの手で鷲掴みに握って食事をする子たちが少なからずいた。

彼らはその生い立ちの中で、「箸を使うという右手の発達トレーニング」すら与えられなかった者たちだった。

 また、同じく極端な機能不全家庭の出身者では、アスペルガー症候群(知的障害を伴わない自閉症スペクトラム)を疑うような、コミュニケーションや他者への気持ちへの理解を極端に苦手としたり、言語の延長線上に暴力があるような子たちも多く見てきた。

 だが、彼らのすべてが先天的な発達障害ではないことを知っている。(中略)

 当たり前の話だが、コミュニケーション力や他者への共感力なども、個人差はあれど多くは教育と訓練と経験の中で発達していくものであり、機能不全家庭の中で適切なコミュニケーションを経験せずに育ってきた彼らが対人関係において「発達不全」なのは障害てはなく自然な成り行きなのだ。 

 

鈴木大介 「脳が壊れた」より

 

鈴木氏はリハビリを続けることで後遺症が少しずつ回復していくが、それを発達の再体験・追体験と述べている。子どもが繰り返し練習して出来なかったことが出来るようになるのと同じというわけだ。ならば読書スキルだって同じではないかと思った。妻は事情があって幼少期から読書をする環境ではなかった。だが、これから鍛えていけばいい。子どもが読書スキルを得る過程として、絵本の読み聞かせ→自分で絵本を読む→児童文学→一般的な小説 だと思う。さすがに絵本から始める必要ないが、かといって児童文学もいまから読むのもどうだろうか。やはり敷居が低いライトノベル辺りから始めるのがよさそうである。アニメ化していて妻が観たことがあるならよりベターだ。先は長そうだが、やってみる価値はある。このブログで読んだ物を紹介していくつもりだが、同じように読書スキルで悩む人の参考になればうれしい。